35話目:好きでいる事
徐々に距離を縮める唇。吐息がかかる程の近さまで来た時、ラクチェアは力任せにエディルを突き飛ばした。
「や……っ!」
じりじりと後退し、よろけたエディルから遠ざかる。心臓は壊れたみたいに嫌なリズムを刻んでいた。
「わ、私はノエル王子が好きなんです」
だから、と続ける前にエディルの声が遮った。
「知っている」
「だったらあんな事やめてください!」
「……お前がどんなに想っても無駄なのに?」
エディルはその場から動かずに、ただラクチェアを見つめているだけ。それだけなのにラクチェアは金縛りにあったように体を動かす事が出来ない。
「ノエル王子は姫と結婚されるんだろう? ……お前を選んではくれない」
事実ゆえに、その言葉はラクチェアの心を深く刔る。ラクチェアがノエルを想う事は不毛なのかもしれない。
けれど。
「私は諦めないんです! もう本当に駄目だって思える最後のギリギリまで、私は王子を好きでいる事をやめたりしません!」
「……!」
「この体に残っている王子の熱や感触を……私はまだなくしたくない……!」
感情がたかぶり、奥からたくさんのものが溢れ出してくる。その波に呑まれかけ、じわりと涙が滲んだ。
歯を食いしばり、溺れないように心を奮い立たせる。まだ大丈夫。まだ心は折れない。
「……ラクチェア」
エディルの表情が変わる。何かを悔いているような顔で、ラクチェアを見ていた。
「わ、わたっ、私じゃあ、姫に敵うはず無いのかもしれませんけど!」
溜まった涙が留まり切れずに瞳からこぼれた。頬に濡れた後を残し、顎の先から地面へと落下していく。
次から次へと流れていく涙を懸命に拭いながら、乱れた息でラクチェアは続けた。
「それでも、好きなんです……っ!」
ノエルと重ねた時間。その時間が築き上げた想い。それを簡単に捨てられるわけがない。
例え相手がエディルだとしても。
「……すまない」
「……は」
「酷い事をした」
泣きながら目を丸くしたラクチェアに、エディルは頭を下げる。
「すまない……」
思わず、といった風に伸ばされるエディルの腕。その雰囲気が先程までのものとは違う事に気付き、ラクチェアは敢えて動かなかった。もしもまたあのような行為に出たら容赦せずに殴る心構えをしながら、向かってくる指先を見つめた。
長い指がラクチェアの髪に触れる寸前、視界が突然別の色で埋め尽くされた。暗闇に淡く浮かび上がる、柔らかな金色。
「……え」
伸ばされたエディルの腕。その手首を掴み、ラクチェアとの間に体を滑り込ませたのは。
「王子……!?」
ローズクォーツの瞳が細められ、エディルを睨み付ける。
「僕の好きな人だ」
いつもの優しい声ではない、鋭い刃のような声で。
「触るな」
言い終わるやいなや、ラクチェアの手を取り走り出す。夜の森に消えていく背中を、エディルは呆然と見送った。
少し間を空けて、背後の草が音を立てる。振り返った先には驚いた顔のセレネディアがいた。
「姫」
「……ノエル殿下はこちらに……」
「今しがたラクチェアをさらっていかれましたよ」
「……そう」
お互いに視線を合わせようとしない。気まずい空気が流れた後、セレネディアがぽつりと尋ねた。
「ラクチェアと何をしていたの?」
「何も」
遠く、人の声が聞こえる。セレネディアの名前を叫んでいる事から、彼女を追ってきた城の人間だと知れた。
エディルはその場を去ろうと体を反転させかけ、ゆっくりとセレネディアへ視線を向けた。
「二人は真剣ですよ」
「……ラクチェアと殿下の事?」
「手強いと思います」
ふ、と控えめに微笑み、今度こそ森の奥へと姿を消す。残されたセレネディアは唇を噛み、揺らぐ瞳で月を見上げた。
「……でも、それでも……」
丸いはずの月の輪郭は、まるで子供の落書きみたいにぼやけて歪んでいた。




