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新選組余話-比翼の鳥-  作者: 子父澤 緊
黒船と白旗 後編
75/76

体面

同日の夜半、州崎品川楼すざきしながわろうにて。

小亀の物憂ものうげな歌声が開け放った窓から入ってくる冷たい外気に溶けてゆく。

「秋の夜は

ながいものとはまんまるな

月見ぬ人の心かも

更けて待てども来ぬ人の

訪づるものは鐘ばかり

数ふる指も…」

陰鬱いんうつ端歌はうただ」

不興気ふきょうげに島田が一つ舌打ちして、さかずきに波並と注がれた酒をすすった。

紅梅は、三味線を爪弾つまびく指を止めて、形の良い眉を寄せたが、顔は正面を見据みすえたままだ。

それを取りつくろうように小亀が身を乗り出して三つ指を付いた。

「申し訳…」

島田は、皆まで言わせず、さえぎるように手を振った。

「案の定、我々をぎ回っている人間がいるそうだ」

島田と差し向かいに座っていた清河八郎は、手拍子てびょうしを打っていた手のやり場に困るような仕草しぐさを見せて、照れ笑いを浮かべた。

「そろそろ潮時しおどきということでしょう。しかし、もはや機はじゅくしたのではありませんか。今や諸藩しょはん上屋敷かみやしきでも、メリケンとの交渉の是非ぜひについては、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が交わされていると聞き及びます。水戸様みとさま不手際ふてぎわをあげつらって、政局せいきょくに持ち込めば、チャカポン殿どのの浮かぶもありましょう」

島田は、鼻を鳴らして、残った酒を飲み干した。

「騒いでおるのは青臭いひよっこどもばかり。まだ大樹の枝がそよいでおるにすぎん。さりとて、これ以上世論がメリケン憎しに傾くのもはかばかしくない。頭の痛いところだ」

小亀が、あわてた様子でそのさかずきを満たす。

「と言うと、すなわちチャカポン殿どのは、開国をとしておられるということでしょうか」

清河が、面白がるように先をうながした。

「どちらでも良いではないか。大事なのは、まず我々が舞台に上がること。違うか?よもや、今更袂いまさらたもとを分かつとは言うまいな」

紅梅は微動びどうだにせぬまま、一つまばたきして、その眼だけを、清河へ向けた。

釣られて小亀もその視線の先にある顔をうかがった。

清河は二人を気にする風もなく、空になった徳利とっくりを逆さまに振っている。

「無論。乗りかけた船です」

「そうとも。船はもう沖へぎ出している」

紅梅が、片眉を上げて茶々を入れた。

「でも沖には黒船がいかりを降ろしておりますよ」

清河は、彼女を制するように無言で片目をすがめて見せた。

しかし島田は、その言葉を引き取る形で清河にたずねた。

「ああ。貴公きこうらはあの船を見たか。あれとまともにやり合おうなど、正気の沙汰さたではなかろう。ねがわくば、我々も同乗どうじょうして、江戸城に巣食う魑魅魍魎ちみもうりょうをあの砲門ほうもん一掃いっそうするが上策じょうさくよ」

「それはそのままチャカポン殿どののご意思と取ってもよろしいか」

島田はそれに直接答えず、珍しく真顔まがおで清河の目を真っ直ぐに見た。

勘違かんちがいするな。何も奴らの要求を鵜呑うのみにするつもりはない。しかし、このままその場しのぎの譲歩じょうほを繰り返すより、まずは交渉の席につき、通商つうしょうをメリケンから押し付けられたていをなんとしてもけねばならん。夷狄いてきどもの恫喝にまごついている間にも、上様うえさまのご威光いこうは、刻々とそこなわれていくのだからな。誰かが強権をもって断を下さねば、列強れっきょうしんの時のように我が国土こくどを食いくし、やがて幕府は骨抜ほねぬきにされよう」

「いやはや、ご主君がそのように高邁こうまいな理想をお持ちとは」

島田は、清河の口ぶりに皮肉の匂いをぎ取り、威嚇いかくするようににらみつけた。

清河は、視線をらし、曖昧あいまい微笑ほほえみを浮かべてはぐらかすとはいをあおった。

「いやまあ。しかし、見事な搦め手(からめて)にございますな。水戸一派も、まさか開国論者のてのひらで踊らされているとは夢にも思っておらんでしょう」

「主はなかなかの策士さくしだが、今回の手法は諸刃もろはの剣だ。下手をすれば、開国、攘夷じょうい派双方から吊るし上げをくらいかねん。妙な動きには目を光らせねば。」

清河はうんざりしたように、手を払った。

「我々もことあるごとに水戸藩の名を持ち出して来たのです。本物の海保かいほあたりが何か感づいたとしても驚くにはあたらんでしょう。ただ、あいにくわたしゃ荒事あらごとは苦手でね。そちらは例の力持ち殿どのにお任せしますよ」

「そこまでは言っておらぬ」

島田は、赤ら顔をゆがめて笑った。

紅梅は、うつむいた清河の目が暗い光を湛」(たた)えているのに気づいた。

島田が、はばかりに席を立つと、清河は徳利とっくりに残った酒を手酌てじゃくで注ぎ始めた。

紅梅は頬杖ほおづえをついて、仏頂面ぶっしょうづらを作っている。

「なんか言いたげだな」

「別に」

「島田殿は、おめえのことを見くびって少々口を滑らしても差し支えあるまいとたかくくっているようだが、俺はそうは思っちゃいねえ。蓮っ葉(ハスッパ)だが実に世事に通じたご婦人だとお見受けしてるがね。どうだい、ご意見拝聴はいちょうするぜ。」

「じゃあ言わせてもらうよ」

小亀がいさめようと腰を浮かしたのを眼で制して、紅梅は幕したてた。

「あのデブ、一端いっぱし憂国ゆうこく風情ふぜいを気取っちゃいるが、詰まるところ、メリケンに尻尾しっぽを振る算段に熱心なだけじゃないか。身のたけに合わない大事にからんで、一角ひとかどの人物にでもなったつもりだろうが、あの調子じゃ、周りには筒抜つつぬけさ。あっちこっちで『ここだけの話』を吹聴ふいちょうしてるにちがいないよ。

あたしにゃ、なんだかケツの青いガキが背伸びしてるようにしか見えないね。あんな箱入はこいりの火遊ひあそびに付き合うのは、感心しない。ことによると、あんたの命取りになるよ」

「お前は面白い女だなあ。ま、俺もそう思っちゃいるがね。火遊びってのは、危ねえからこそ、そそられるもんさ。違うかい?」

「今から手を引くわけにはいかないの?」

「もう首まで浸かっちまってるからな。奴とは明日、もう一度ここで会う約束をしてる。今度はお偉いさんも顔を出すから接待せったいは抜かりなく頼むぜ」

「こないだ言ってた鵜殿うどのなんとかって目付けね」

剣呑けんのん剣呑けんのん。やっぱり、すかした顔をして、聞くこたしっかり聞いてやがる。小亀も分かってるたあ思うが、しゅせき席の話は、くれぐれも他言無用たごんむように願うぜ?」

それまで黙って話を聞いていた小亀は、息を呑むようにしてうなづいた。

紅梅は、三味線の弦をもてあそびながら、吐き捨てるように応えた。

「…あんた、あたしのことを信用しすぎだよ」

清河はただニヤリと笑って、片目をつぶって見せた。


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