体面
同日の夜半、州崎品川楼にて。
小亀の物憂げな歌声が開け放った窓から入ってくる冷たい外気に溶けてゆく。
「秋の夜は
ながいものとはまんまるな
月見ぬ人の心かも
更けて待てども来ぬ人の
訪づるものは鐘ばかり
数ふる指も…」
「陰鬱な端歌だ」
不興気に島田が一つ舌打ちして、盃に波並と注がれた酒をすすった。
紅梅は、三味線を爪弾く指を止めて、形の良い眉を寄せたが、顔は正面を見据えたままだ。
それを取り繕うように小亀が身を乗り出して三つ指を付いた。
「申し訳…」
島田は、皆まで言わせず、遮るように手を振った。
「案の定、我々を嗅ぎ回っている人間がいるそうだ」
島田と差し向かいに座っていた清河八郎は、手拍子を打っていた手のやり場に困るような仕草を見せて、照れ笑いを浮かべた。
「そろそろ潮時ということでしょう。しかし、もはや機は熟したのではありませんか。今や諸藩の上屋敷でも、メリケンとの交渉の是非については、喧々諤々の議論が交わされていると聞き及びます。水戸様の不手際をあげつらって、政局に持ち込めば、チャカポン殿の浮かぶ瀬もありましょう」
島田は、鼻を鳴らして、残った酒を飲み干した。
「騒いでおるのは青臭いひよっこどもばかり。まだ大樹の枝がそよいでおるにすぎん。さりとて、これ以上世論がメリケン憎しに傾くのもはかばかしくない。頭の痛いところだ」
小亀が、慌てた様子でその盃を満たす。
「と言うと、すなわちチャカポン殿は、開国を是としておられるということでしょうか」
清河が、面白がるように先を促した。
「どちらでも良いではないか。大事なのは、まず我々が舞台に上がること。違うか?よもや、今更袂を分かつとは言うまいな」
紅梅は微動だにせぬまま、一つ瞬きして、その眼だけを、清河へ向けた。
釣られて小亀もその視線の先にある顔を窺った。
清河は二人を気にする風もなく、空になった徳利を逆さまに振っている。
「無論。乗りかけた船です」
「そうとも。船はもう沖へ漕ぎ出している」
紅梅が、片眉を上げて茶々を入れた。
「でも沖には黒船が錨を降ろしておりますよ」
清河は、彼女を制するように無言で片目をすがめて見せた。
しかし島田は、その言葉を引き取る形で清河に尋ねた。
「ああ。貴公らはあの船を見たか。あれとまともにやり合おうなど、正気の沙汰ではなかろう。願わくば、我々も同乗して、江戸城に巣食う魑魅魍魎をあの砲門で一掃するが上策よ」
「それはそのままチャカポン殿のご意思と取っても宜しいか」
島田はそれに直接答えず、珍しく真顔で清河の目を真っ直ぐに見た。
「勘違いするな。何も奴らの要求を鵜呑みにするつもりはない。しかし、このままその場しのぎの譲歩を繰り返すより、まずは交渉の席につき、通商をメリケンから押し付けられた体をなんとしても避けねばならん。夷狄どもの恫喝にまごついている間にも、上様のご威光は、刻々と損なわれていくのだからな。誰かが強権を以て断を下さねば、列強は清の時のように我が国土を食い尽くし、やがて幕府は骨抜きにされよう」
「いやはや、ご主君がそのように高邁な理想をお持ちとは」
島田は、清河の口ぶりに皮肉の匂いを嗅ぎ取り、威嚇するように睨みつけた。
清河は、視線を逸らし、曖昧な微笑みを浮かべてはぐらかすと杯をあおった。
「いやまあ。しかし、見事な搦め手にございますな。水戸一派も、まさか開国論者の掌で踊らされているとは夢にも思っておらんでしょう」
「主はなかなかの策士だが、今回の手法は諸刃の剣だ。下手をすれば、開国、攘夷派双方から吊るし上げをくらいかねん。妙な動きには目を光らせねば。」
清河はうんざりしたように、手を払った。
「我々もことあるごとに水戸藩の名を持ち出して来たのです。本物の海保あたりが何か感づいたとしても驚くにはあたらんでしょう。ただ、あいにくわたしゃ荒事は苦手でね。そちらは例の力持ち殿にお任せしますよ」
「そこまでは言っておらぬ」
島田は、赤ら顔を歪めて笑った。
紅梅は、うつむいた清河の目が暗い光を湛」(たた)えているのに気づいた。
島田が、はばかりに席を立つと、清河は徳利に残った酒を手酌で注ぎ始めた。
紅梅は頬杖をついて、仏頂面を作っている。
「なんか言いたげだな」
「別に」
「島田殿は、おめえのことを見くびって少々口を滑らしても差し支えあるまいと高を括っているようだが、俺はそうは思っちゃいねえ。蓮っ葉だが実に世事に通じたご婦人だとお見受けしてるがね。どうだい、ご意見拝聴するぜ。」
「じゃあ言わせてもらうよ」
小亀が諌めようと腰を浮かしたのを眼で制して、紅梅は幕したてた。
「あのデブ、一端に憂国の風情を気取っちゃいるが、詰まるところ、メリケンに尻尾を振る算段に熱心なだけじゃないか。身の丈に合わない大事に絡んで、一角の人物にでもなったつもりだろうが、あの調子じゃ、周りには筒抜けさ。あっちこっちで『ここだけの話』を吹聴してるにちがいないよ。
あたしにゃ、なんだかケツの青いガキが背伸びしてるようにしか見えないね。あんな箱入りの火遊びに付き合うのは、感心しない。ことによると、あんたの命取りになるよ」
「お前は面白い女だなあ。ま、俺もそう思っちゃいるがね。火遊びってのは、危ねえからこそ、そそられるもんさ。違うかい?」
「今から手を引くわけにはいかないの?」
「もう首まで浸かっちまってるからな。奴とは明日、もう一度ここで会う約束をしてる。今度はお偉いさんも顔を出すから接待は抜かりなく頼むぜ」
「こないだ言ってた鵜殿なんとかって目付けね」
「剣呑、剣呑。やっぱり、すかした顔をして、聞くこたしっかり聞いてやがる。小亀も分かってるたあ思うが、酒席の話は、くれぐれも他言無用に願うぜ?」
それまで黙って話を聞いていた小亀は、息を呑むようにしてうなづいた。
紅梅は、三味線の弦を弄びながら、吐き捨てるように応えた。
「…あんた、あたしのことを信用しすぎだよ」
清河はただニヤリと笑って、片目をつぶって見せた。




