地獄
鈴木大蔵は、神田明神の惨劇を目の当たりにすると、真っ直ぐ深川八幡へ向かった。
あの男がどのようにして死んだのか、そして、やったのが誰であるか、それは考えるまでもないことだった。
大蔵は決して情に厚いと言える人間ではなかったが、自分の身の周りで起きた出来事に対して無関心を決め込むほど醒めてもいなかった。
彼の関心は、「何のために」それが起きたのかと言う部分にあった。
それを、三ノ宮卯之助に糾さずにおれないのが、大蔵の性だった。
「力持ち」の興行はまだ始まっていなかった。
見世物小屋の裏手にも廻ってみたが、卯之助の姿はない。
当てもなく境内を彷徨っているうち、大蔵はその諍いに行き当たった。
「やめろ、卯之助さん!」
鈴木大蔵は、石を振り上げて仁王立ちする三宮卯之助の背中に声を掛けた。
「鈴木様、あなたか。まったく、今日は千客万来だな」
卯之助は振り返らず、そう応えた。
「それを降ろせ。あなたの力を、そんな事に使ってはいけない」
「そう思うなら斬ればいい。私は背中を晒している」
「話して分らないような相手なら、そうする。それに、ここは聖域だ」
「…時に神々は、血の滴る供物を望む」
「なに?」
大蔵は、眉をひそめた。
「いったい、あなた方侍は、いつまでそうやって、のほほんと構えているつもりだ」
卯之助の問い掛けは、大蔵だけでなく、良之助にも向けられていた。
「私がこの富岡八幡で上様に芸を披露したのは、天保四年の事だ」
大蔵は、その背中を見つめながら、ただ黙って先を待つしかなかった。
「あなた方は知らんだろうが、飢饉の始まった年さ。その後数年間、わたしは各地を巡業で回りながら、この世のものとは思えない光景を何度も目の当たりにしたよ」
「なにが言いたい。あれは天災だ」
良之介が抑えた声で、異を唱える。
「そうかな。民草は、痩せさらばえた犬や猫を喰い、口減らしの為に、自分の子供まで殺した。だが、それも焼け石に水だ。凶作の上、疫病が蔓延した村では、筵に巻かれた躯が、川原に山積みされて焼かれた。毎日、毎晩。しかし一方で、そこから一里と離れていない場所には、わたしの下らん芸を見て歓声をあげている人間が大勢いた。それがどういった人種か、分かるらんわけではあるまい」
若い侍二人は言葉を失った。
「別にあんた方だけが、後ろめたい想いをすることもないさ。なにせ、そいつらが払った金で、腹いっぱい食ってたのは、他ならぬこの私なんだからな」
卯之助は低く笑った。
「わかるか。わたしは海保に命令されたから、こんな事をやっている訳じゃない。あの男がわたしを利用しているように、私もあの男の力を利用しているだけに過ぎん」
「その為には、人を殺めることも辞さんというわけか」
大蔵が、詰問する。
「もうあんな光景を、ただ黙って見ている側に廻るのは嫌なんだ。無為無策の士分どもには、これ以上任せておけんと思ったまでだ」
卯之助は語り終えると、中沢良之助の足元に大石を叩き付けた。
その時、卯之助が悲しそうな笑みを浮かべるのを良之助は見た。
「次は殺す」
そういい残すと、卯之助は身を翻し、無言で大蔵の脇を通り過ぎた。
残された二人は、しばし呆然としていた。
密談の相手はとうに姿を消している。
「しかし、もう一人の男、あの声は…」
良之助が足元の石を見つめながら呟いた。
「大丈夫ですか?」
目の前に差し出された手を見て、面を上げた良之助は再び絶句した。
そこに立っていた男の顔は、姉の琴、そのものだった。




