市谷甲良屋敷
翌朝、山南敬介は市谷甲良屋敷の試衛館を訪ねた。
沢山の雀がうるさいほどさえずっている。
一昨日、井上源三郎と顔を合わせた庭先には、誰もいない。
道場から木刀を打ち合う音が響いてきたが、鳥たちの鳴き声に比べれば、寂しいものだった。
「山南さん!」
どこからともなく声が聞こえてくる。
見上げると、屋根の上から、島崎勝太が顔を出した。
「そんな処で、なにをやってるんですか?」
「雨漏りがひどくてね。屋根の修理を!今、降りて行きます!宗次郎!梯子をこっちに持ってきてくれ!おい!宗次郎!」
山南は辺りを見渡して、
「見当たりません!」
と声を掛けた。
「たく、使えねえ奴だな。源さん!おーい!源さん!」
「近くには、誰もいませんよ!」
「山南さん。すまないが、裏に梯子が置いてないかみて来てくれ」
山南は、仕方なく勝手口の方まで周り込んでみた。
「すみません。見当たりません!」
「えーいクソ!あいつら!」
島崎は、毒づくと、ヤケを起こして、屋根から飛び降りた。
「だ、大丈夫ですか?」
「…!お気遣いは無用。それよりどうしたんです、急に?」
島崎は、痛みに顔をしかめながら尋ねた。
「あれから色々考えてみたんですが、今日から、こちらでお世話になることにしました」
山南は悪びれずに応えた。
島崎は、尻餅をついたまま眼を見開いていたが、やがて大声で笑った。
そこへ、沖田宗次郎が梯子を担いで飄々とやってきた。
「あらら、勝太さん、飛び降りたの」
「てめえ、どこ行ってやがった?」
宗次郎は、担いでいる梯子に目をやってから、島崎に向き直った。
「ごめん。母屋の方で使うって言うからさ」
「そんなもん、何に使うっていうんだ!」
「軒下の蜂の巣だよ」
当たり前だろうという風に宗次郎は答えた。
「まったく、なにも今日、いきなり蜂が巣を作ったわけでもなかろう?」
「近藤先生が前から言ってたんだけど、誰も怖がって取ろうとしないからさ」
近藤とは、この道場の主、近藤周助の事だ。
宗次郎は、当事者の一人である自分を棚に上げて、島崎を責めるような視線を送った。
「さっき、土方さんがたまたま来て、とってやるって言うからさ、源さんが押し付けたんだ」
「歳が来てるのか」
島崎は腰を押さえて、険しい顔をしたまま尋ねた。
宗次郎がうなずくと、島崎は呻きながら立ち上がった。
「ちょうどいい、山南さんにも紹介しよう」
宗次郎は、島崎に手を貸しながら、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
山南の問いかけるような目に、島崎は、
「同郷の友人です。この道場へもたまに顔を見せるが、根が金持ちの放蕩息子で、気の向いたときしか稽古もしない。不肖の弟子というやつです」
と引きつった笑いを見せた。
「それはいいけどさ。今日は、あの女の人は一緒じゃないのかい」
宗次朗が口を挟んだ。
「すみません。さすがに年頃の娘さんを、毎日連れ出すのははばかられまして。ところで、日を置かずにやってきたのは、もう一つ理由があります」
山南は、何か思い出したように、宗次郎を見た。
「またこいつの件ですか?」
宗次郎が懐から「白旗書簡」を取り出して言った。
「いつまでそんなもんを後生大事に持ってやがる」
島崎が舌打ちした。
「家に置いとくと、義兄さんが誰彼構わずに見せるから、捨ててしまえって姉さんに渡されたの」
「捨てちゃいかん!」
山南が慌てて手紙に手を伸ばした。
「そう思ったから、持ってるんじゃないか」
宗次郎は、その手から手紙をひょいとかわすと、物わかりの悪い大人たちを睨んだ。
「深川八幡で、それを配っていた連中の事を、もう少し詳しく聞かせてくれないか」
山南は、宗次郎に言った。
宗次郎は、例の悪戯っぽい笑みを浮かべて悩む振りをした。
「どうすっかなあ、元はといえば、あのお琴さんが源さんに勝ったら教えるって約束だしなあ」
「この餓鬼、まだそんな事を言ってやがんのか!」
島崎が、宗次郎の襟首をつかんだ。
「わたしは、源さんのためを思って言ってるんだ。だって、お琴さん、源さんに気があるぜ?」
「本当にそうなのか?」
島崎は宗次郎の顔をマジマジと覗き込んだ。
「源さんが、あんなすげえ美人を嫁にしたら、土方さんの悔しがる顔が目に浮かぶ。キキキ」
「誰が悔しがるって?」
宗次郎の背後から、手紙をひょいと摘み上げて、薬売りの装束をまとった若者が姿を現した。
「随分な言われようだな。蜂の巣も触れない臆病者が言ってくれるぜ」
島崎がにやりと笑って、その若者を親指で指した。
「こいつです、不肖の弟子。土方歳三です」
「あんたの弟子じゃねえがな」
若者は手紙に目を通しながら、不機嫌な調子で言った。
「なんだい、ここにもこんなもんが出回ってんのか?」
「知ってるのか?」
島崎が意外な顔をした。
「ああ。松崎さんの道場でも見たぜ」
天然理心流は、この島崎勝太が市谷甲良屋敷の宗家を継ぐと言われていたが、発祥である多摩にも依然多くの道場が残っており、そのうちの一つが松崎和多五郎の系統だった。
「こないだ、商売で久しぶりに寄ったんだが、若い連中が、そいつを見てえらくいきり立ってたな」
「誰が持ちこんだ?」
「ほら、あいつだよ、小峰…」
「小峰…小峰軍司か」
島崎はすぐに思い当たったらしく、手を打った。
「何者です?」
山南が眉をひそめる。
「多摩にある道場の門弟です。この土方と同じ、豪農のぼんぼんでね。もっともあちらは、天然理心流始まって以来の天才と言われた男だ。江戸に出たと聞いていたが」
「ぬかせ」
土方が島崎を睨んだ。
山南は、その肩を掴んで、自分の方に引き寄せた。
「何処に行けば、その男に会えますか?」
「え?そうさねえ。…あんた誰?」
土方が、面食らった表情で尋ねる。
宗次郎が、けたたましい笑い声をたてた。
「失礼、本日より、島崎先生に教えを乞うことになりました、奥州脱藩、山南敬介と申します」
土方は、値踏みするように山南の姿を上から下まで眺めまわすと、無愛想なお辞儀を返した。
「…どうも」




