苦界
「あちきと床入りがお望みなら、次は、もうちょっとマシな咄を仕込んできなんし」
振り返りざま紅梅はそう言い放つと、ピシャリと後ろ手に座敷の襖を閉めて、階段をドカドカと降りてきた。
「花魁」
控えていた禿が駆け寄ってくる。
紅梅は、土間にいた数人の下働きをぎろりと見渡してから、不機嫌な顔で人差し指を立てると、禿の口を押さえた。
「いい?黙ってお聞き。内藤新宿の岡場所で、酔っ払って刃物を振り回した噺家が、番所の牢屋に入れられた」
禿と下働き達は、唐突な話に、皆きょとんとしている。
紅梅はそんな事にはお構いなしに、本性である下町娘の蓮っ葉な口調で、先を続けた。
「牢屋には爺さんが一人、先に入っていて、やることもない二人はお互いの身の上話を始めた。
聞けばその爺さん、元は郡山藩の馬番だったらしいんだけど、花魁に入れあげて、出来心でお殿さんの馬を盗んじまったのが運の尽きでね。
要は、その馬を売っ払って金を作ろうとしたわけさ。
一方の落語家も、岡場所の女に熱を上げて、郭で大暴れしてとっ捕まった馬鹿だから、似たような境遇の二人は、すっかり意気投合しちまった。
話しあううちに、二人とも、またお目当ての女に未練が沸いてきて、じゃ共力して脱獄しようって話になったんだ。
まず爺さんが発作を起こした振りをして、噺家が、『相棒が腹が痛いと苦しがってる』って大騒ぎして、牢番を呼ぶ。
手はずどおり牢番がやってくると、落語家は『医者に見せてやってくれ』って泣きつくの。
で、牢番が鍵を開けた途端、飛び出して二人でのしちまおうって寸法さ。
でも牢番は、そんなのには慣れてるから、そりゃあ三味線だって取り合わない。
とりつく島もなく行ってしまおうとするんで、噺家は慌てて、『じゃあせめてあっしの落語を聞いてから行ってください』って懇願したんだ」
紅梅はそこで一旦話を切ると、伊達兵庫に結った髪から、かんざしを引き抜き、もう一度差し込んで頭を掻いた。
「ね?もう訳分かんないでしょ?」
「…はい」
禿は、どう返事をしていいかよく分からないまま、うなずいた。
「…えっとそれでなんだっけ?そう、落語家は、必死で十八番を演じるんだけどさ、全然ウケないってか、牢番は、欠伸ばっかしてるわけ。
こりゃヤバイってんで、『もうひとつ。もっと面白いのがあるんです』ってね、噺家は、必死に場をつなごうとするんだけど、牢番に『もういい、もう飽きた』って突っぱねられちゃうの。
で、牢番は、去り際に『俺はもう寝るが、そういや爺さんの腹の具合はどうだい?』って皮肉たっぷりに尋ねた。
そしたら、腹を抱えてうずくまってた馬番の爺さんが、むっくり起きだしてきて、言うわけよ。
『いえ旦那、腹がよじれてます』」
紅梅は、周囲の反応を窺うように、もう一度その場にいた者を見渡してから、眦を決して叫んだ。
「今さ、あんたたちも『…なんっだ、そりゃ!』って思ったわよね?つーかさ、じゃ、最初の馬の件はなんなの?ねえ、あんた、この話のどこか面白いかわかる?」
「う、う~ん…」
禿が小さなおかっぱ顔をかしげて考えこんでいると、
「結局、その馬番は、どうなったの」
と、上り框にちょこんと腰掛けていた娘が、振り返って尋ねた。
「知るもんか!こんなくっだらない噺、最後まで付き合ってらんないよ!」
そう言ってから、紅梅は初めてその存在に気づいたように、娘の顔をしげしげ見た。
「そこ、おどき」
と、禿が花魁の道を空けさせようとすると、品川楼の主人が帳場から顔を出して、
「その娘さん、花魁道中が到着する前から、あんたのお座敷がハネんのを待ってなさるんだよ」
と言って、紅梅に先程の押し借りの件を話して聞かせた。
「はあん。随分とまあ気風のいいこったね。で?あたしに何の用…」
紅梅は言葉を切ると、切れ長の眉を寄せて、娘の鼻先まで顔を近づけた。
「あんた…、ひょっとして琴?」
琴はそれには応えず、
「姐さん。お願いがあって来たの」
と切り出した。
「あれから、なんの音沙汰もなしで、前触れもなくいきなり現れたと思ったら、それかい。ま、あんたらしいけど」
紅梅は、しばらくの間、呆れた様子で相手を眺めていた。
「ごめんなさい」
琴は本当の姉に叱られたようにうつむいた。
「大きくなったねえ。あたし程じゃないにせよ、綺麗になったじゃない」
「そう」
「利根に行ったんだっけか。元気にやってた」
「あ、うん。はい」
「…相っ変わらず愛想の無い子だね。まあいいや。なにさ」
「それが、娘さん、ここで雇ってくれとさ」
楼主がまた帳場から顔を出して口を挟んだ。
紅梅は険しい眼で、楼主を流し見た。
「今、人手は足りてると一旦断ったんだが、あんたと知り合いだって言うからさ」
紅梅の眼光に怖気づいたのか、楼主は言い訳でもするように、ボソボソとそれだけ呟くと、また奥へ引っ込んだ。
「下女でもなんでもいいの」
琴がすがるように言った。
「あんたまさか、あの身請けしてくれたお侍のとこ飛び出してきちゃったの」
紅梅はその険しい目で、今度は琴を睨みつけた。
「そういう訳じゃ無いけど」
またうつむく琴を尻目に、紅梅は土間に下りて三枚歯の高下駄を引っ掛けた。
そして、琴の襟首を掴むと、土間を引きずって、暖簾の外に突き飛ばした。
琴はされるがままに地面に手をつくと、物怖じしない眼で紅梅を見返した。
「姐さん、花魁になったんでしょ?郭にも顔が利くんでしょう?」
高下駄を履いた花魁は氷のように冷ややかな目で、町娘を見下ろした。
「どこであたしが花魁になったことを知ったのさ」
「江戸に戻った次の日、門の前まで来たの。その時、外のお茶屋で聞いた」
「ふうん。あっそ」
「お願い」
「はん、そいつは出来ない相談だ」
琴は立ち上がると、うなだれて膝の砂を払った。
紅梅は琴の顎をつかんで、無理矢理顔を上げさせると、諭すように囁いた。
「なにがあったのか知らないけどね。せっかく堅気になれたのに、また好き好んで、苦界に脚を突っ込むの?周りをご覧。みんな妙な顔であんたを見てる。ここはあんたみたいな町娘が来る場所じゃないんだよ。さっさと出ていきな」
琴の眼は、潤んでいた。
彼女は、昔から殆どといっていい程、感情を表に出さなかったが、どうした訳か、紅梅の前でだけは幾分素直になるところがあった。
「…はい」
その様子を見て、紅梅は情に流されまいと必死で堪えている様子だったが、ついに折れたらしく、渋い顔で肩を落とした。
「ちっ、わかったよ。うちの馴染みの客にでも堅気の奉公の(ほうこう)口がないか聞いといてやるから。とにかく今日は帰んな」
「うん…あの」
「なんだい!悪いけど、あたしは忙しいんだよ。なんせ、今じゃ売れっ子の花魁なんでね」
「あの、あのね、ずっと前、わたしがここにいた頃に、清河正明ってお侍がお座敷を揚げたでしょ?あの人、まだ顔を見せる?」
紅梅は清河の名を聞いて不審げな顔をした。
「ああ、あの清河、今じゃすっかり常連さんだよ」
「どこに行けば会えるかわかる?」
「どこったって、あの人、浪人だからねえ。普段なにをやってんだか、正体の知れない奴でさ」
「そう」
力なく呟く琴の両肩を、紅梅が掴んだ。
「琴、あんた、あの男になんか用があんの?だから、ここで働きたいなんて突然言い出したの?」
「…別にそれだけじゃないけど」
「あの男に関わんのはやめときな。あいつはただの食い詰め浪人じゃない。なんかヤバい橋を渡ろうとしてる」
琴はハッと顔を上げて、紅梅を見つめた。
「まさか、あんたも関わってんのかい?」
「わからない。でも、私の弟が、それに巻き込まれてるかも知れない」
紅梅は珍しく考えこんでいたが、
「…わかった。けど、この町でまた働くなんてのは駄目。今度あいつが来たら、必ず知らせてやるから、あんたの居場所を書いて、帳場にいるハゲ頭に渡しときな。今日のところは大人しく帰るんだ」
と、妹を見るような目で、琴の頭を撫でた。
「じゃあ、行くね」
「姐さん」
紅梅は、うんざりした顔で宙を眺めてから振り返った。
「まだ、なんか用?」
「ありがとう」




