天手力雄
一年を通じて、最も日の短い季節だ。
夜の五つ、江戸城桜田門から少し南に下ったところにある愛宕神社の境内には、すでに人影は見当たらない。
ひんやりと空気が冷たい。
三宮卯之助は、小高い山の上に立つ鳥居を見上げていた。
更にその上には、満天の星があるはずだったが、背の高い木々が邪魔をして、よく見えなかった。
「ご苦労」
背後から男の声がした。
「海保様」
卯之助は、振り返って一礼した。
この男は、いつもこうして人目を忍んで会う場所を指定してきた。
そして、姿を見せると出し抜けに本題に入るのだ。
「攘夷を口実に、押し借りや寸借詐欺まがいの行為に及ぶ輩がいるそうだな?」
「はあ」
卯之助はあいまいな返事をした。
海保と呼ばれた男は、寒さを覚えたのか、羽織の袂をあわせて肩をすくめた。
「そのような輩が召し捕られることでもあれば、我々にまで詮議が及ぶとも限らん」
「心得ております」
「ほう、左様か」
言葉には小馬鹿にしたような響きがあった。
「へえ。先日も、遊郭で放蕩していた浪士を一人、締め上げました」
「40両は持ち逃げされたがな」
卯之助の額には汗が浮かんだ。
「いやしかし、人目が多く…」
男は、卯之助の言い訳を遮った。
「お前の仕事は、ただ人を集めるだけじゃない。人が集まればそれに見合った金が掛かる事を忘れるな」
「肝に銘じおきます」
卯之助は頭を垂れた。
「誰かれ構わず声を掛けるからこうなる。国防に携わる親藩の人間、若しくはそれに近い者でなければ、我等の真意はわかるまい。そのような不逞の輩はまたぞろ同じことを繰り返すだろう」
「申し訳ありません。しかし皆が紋付を着て歩いているわけではないのです。見世物興行の呼子共に直参と外様を見分けろというのは、どだい無理な話でございます」
「直参もクソもあるか。そんな狼藉を働くのは素浪人と相場が決まっておる。まあ、手下どもにも、絣小紋の違いくらいは覚えさせておくがいい」
「へえ」
そして「海保」は、ここからが本題だと言うように間を置いて、卯之助に向き直った。
「七日後、丹波亀山藩邸にてちょっとした余興をやってもらう。大坂から呼び寄せた力自慢とそなたの力比べだ」
「なぜ、今になってそんな…」
「余興は公儀向けの方便だ。これまでのやり方では、埒が開かん。来る日、藩邸へ、お前が掻き集めた同志を一堂に介する手筈を整えろ。勿論、身なりを整えさせてな。勝負の後、慰労を兼ねて宴を催す。そこで銘々が調達した資金を、上納せよと申し伝えるがいい」
卯之助は神妙な顔で姿勢を低くした。
「御意にございます。しかし、先日の例もあれば、皆が大人しく言うことを聞くか、いささか心もとないのですが」
「奴らに、いつまでも金を持たせておいては、ろくな事にならん。それを何とかするのが、お前の仕事だ」
男は少し声を荒げたが、ふと考えて、
「ふむ、見せしめに、その不届き者を、誰ぞ始末するもよし、か」
と声を落とした。
「さすがにそこまでは。ことが露見すれば、それこそ御身に累が及びます」
「なに、死人は喋らぬ」
卯之助は気づかなかったが、暗闇の中で、男の口元には酷薄な笑みが浮かんでいた。
「しかし…」
参道の石畳に目を落としたまま、煮え切らない卯之助に、「海保帆平」は囁いた。
「そなたの役回りは、日本に光を取り戻す天之手力男だ。神が天罰を加うるに、何を躊躇うことがある?」
「また、そのように大袈裟な物言いを…」
卯之助は、畏まって、かぶりを振った。
「お前は神から与えられたその力を、石ころを持ち上げる曲芸に堕するつもりか。奴らは、我々の大義を盾に、罪もない民草を苦しめておるのだ」
「…とは言え、神仏に成り代わって裁きを下すなど、傲慢が過ぎます」
卯之助は五十がらみの男とは思えないほど、無垢な目で男を見返した。
「それは、わしに言うておるのか。控えよ!」
「ははあ!」
卯之助は膝をついた。
「心配するな。皆が素直に言うことを聞けばよし。よしんば食い詰め浪人の骸が一つ路傍に転がったところで、奉行所も身を入れて調べたりすまい」
「は!」
「行け」
卯之助は、苦悶の表情を浮かべて項垂れながら、参道脇の茂みへ姿を消した。
「ふん、不憫なやつだ」
男が呟いた。




