花魁道中
誰哉行灯に火が灯り、妓楼の紅い格子が薄闇に映える頃。
花魁道中が行く。
紅梅は、異例の若さで頂点まで登り詰めた、洲崎の女王だった。
かむろを先導に、振袖の新造を付き従えて歩くその姿は、彼女の美貌やスラリとした肢体もあいまって、まさに女王さながらの風格を漂わせている。
吉原に比べて少し見劣りのする、この洲崎遊郭にあっても、彼女だけは別格だった。
通りには人だかりが出来、男たちは紅梅を見て低い歓声を上げる。
「吉原にも、あれほどの女はいねえ」
黒地に鮮やかな滝の柄をあしらった色打掛が、花魁の奇矯さを物語っている。
男達は、どうすれば彼女のお眼鏡に適うのか散々噂しあったが、彼女は風変わりな気性で知られ、客を選ぶこと甚だしいとの評判だった。
尤も、人気の花魁とは、得てしてそういうものだ。
紅梅が特に変わっていたのは、客の貧富や貴賎には全く囚われないことだった。
社会的な地位はもとより、性の善悪、姿の美醜、腕力の有無、果ては政治的な信条、どれをとっても、紅梅の嗜好には全く共通性というものが見出せない。
強いて言うなら、それは彼女の感性によるところなのだろう。
ために、客はただ指を咥えて、気紛れな女王が自分に微笑みかけてくれることを望むほか無かった。
中沢琴は、州崎遊郭の二重門の前で立ち止まり、若い衆のかざす紅い傘が、人だかりの中に揺れるのを遠目に眺めていた。
色町の入り口に立つ美しい娘の姿は、それだけで人目を引かずにおかなかったが、当人は一向に気にする素振りもない。
かれこれ四半時も、ただその場に立ち尽くしている。
ほろ酔いの人夫たちが通りがかり、卑猥な言葉でからかってきても、彼女は少し呆れたような笑顔を返しただけだった。
往来は賑わいを増してゆく。
そして、とうとう彼女は意を決したように門をくぐった。
「川越、彦根、会津公が江戸の内海を守ってると言っても、所詮、前線に詰めているのは、譜代の庇護の下、ぬくぬくと育ってきた甘ちゃん連中だ」
州崎、品川楼の玄関に、どっかと腰を下ろした目つきの悪い浪人が、楼主を相手に一席ぶっていた。
「いざメリケンの奴らが江戸表に乗り込んで来たとき、斬り結ぶ覚悟の出来てるやつなんざ、いやしねえ。いいか、そこで俺たちの出番さ。今どきの旗本、御家人とは、修羅場をくぐってきた数が違う」
「はあ…」
楼主はこの厄介な客をどう扱ったものか困り果てていた。
他の客や店の奉公人も、居丈高な大声に、何事かとぞろぞろ集まって来たが、近づこうとする者はいない。
浪人は、ペリーの手になるとの触れ込みで、床に拡げて見せた書状にバンと手をついた。
知らぬ振りを決め込んで、土間に酒樽を下ろしていた出入りの酒屋も、手を止めて振り向く。
「あんたもこれを読んだろう。奴らはこの国を舐めきってる。我々はもう雄藩の穀つぶし共には任せておけんと立ち上がったのだ」
「はあ」
「が、いかんせん、禄を得ぬ我々浪人者には先立つもんが無くてな」
楼主にも、ようやくこの男の考えが読めたようで、更に顔をしかめた。
「お侍様、そういうお話でしたら、どうぞ裏へ回って頂けませんか」
「なんだと、女郎の上前をハネている奴輩が、武士に裏へ回れと申すか!」
「お、お気を悪くなされないで下さい。そこに腰を据えていらっしゃると、他のお客様が入りづろうございますので」
品川楼の主人は慌てて言い繕った。
「それほど目先の金が大事か。薄汚い商売で、どんなに溜め込んだところで、墓場まで持ってはいけんぞ!」
男は立ち上がり、刀の柄へ手をかけた。
遠巻きに見ていた女中たちから、小さな悲鳴が漏れる。
楼主は目をむいたまま立ち竦んでしまった。
その時、不意に浪人の利き腕を掴み、後ろ手に捻り上げた者があった。
浪人は呻きながら、もう一方の手を鞘から離した。
背後には、どう見てもこの場にはそぐわない町娘が立っていた。
中沢琴だった。
「ここでそんなものを振り回さないで」
琴は不機嫌な声で言った。
「離せ!」
浪人が首をひねって声を絞り出すと、琴はあっさりその手を離した。
向き直った男が、凄まじい形相で、琴を睨み付ける。
「無礼な!」
その手が再び刀に伸びるより早く、琴は男の左側に回りこむと、帯から鞘ごと刀を抜いて、そのままこじりを顎へ突き上げた。
浪人はガクンと膝を折って、白目を向くとそのまま後ろに倒れてしまった。
琴は刀を玄関の床にそっと置き、倒れている男をもの珍しそうに眺めた。
「人間て、本当に口から泡を吹くのね」
次々と予期せぬことが起きて口が開いたままの楼主は、得体の知れない娘の顔を見た。
目が合うと、琴は言い訳するように、
「あの、勝手口に行ったら誰もいなかったので」
と小さくお辞儀をした。




