落葉
落ち葉が舞っている。
麹町のほど近く、人気のない雑木林の中に二人の姿はあった。
「決心はつきましたか」
真田範之介は、期待を込めた表情で言った。
「決心?」
鈴木大蔵から返ってきたのは、意に反して気のない言葉だった。
「鈴木さんなら、一も二もなく我等の同志になって頂けると思っていましたが」
真田は大蔵の真意を測りかねるように問い返した。
「このところ、私事に煩わされて、失念していました」
「鈴木さんらしくもない。迷う理由はないでしょう。今回の条約締結は、天子様の勅許を得ずして成されたと疑う向きもあります。尊王家の貴殿なら、さぞや腸を煮やしているはずと踏んでいたのですが」
「私のような一介の浪人に外交の内幕を知る由もありません。不確かな噂にまで、一々腹を立ててもしょうがないでしょう?」
「けれど、事態はひっ迫しているのです。早晩、奴らは通商条約を取り付けようとするでしょう。このまま、腰の引けた幕閣どもをのさばらせておいては、わが国も清国の二の舞だ」
大蔵は、首筋の辺りを擦りながら、軽くため息をついた。
「私も人並みの愛国心は持ち合わせているつもりですが、あいにく他人に踊らされるのは好きじゃない」
「どういう意味です」
「真田さん、あなたは、ご自分の意思で、この血盟に加担しておられるつもりかも知れませんが、この騒ぎで一体誰が得をするのか、考えたことがありますか」
「尽忠報国の志とは、無私の精神です。少なくとも私は、この国難にあたって、欲得ずくで動く気など、毛頭ありません。そのような下衆の勘ぐりは、己が名を汚しますぞ」
大蔵は、鼻で笑った。
「伝え聞くところでは、あなた方は大層な金を掻き集めているそうじゃないですか。なのに、あなたの言う腰抜けの幕閣やメリケンどもは、未だ蚊に刺されたほども痛みを感じていない。その金は何処に消えているのです?」
「どこからそんな話を聞いたのか知らんが、ことはそう容易くない。同志たちは、今まさに蜂起すべく、必要な武器を都合する為に、各地の政商と渡りを付けている最中だ」
真田の語気が荒くなった。
「…本当に?」
「何が言いたい」
「あなた達は、利用されているだけかも知れない。それも奴らに諂おうとする側の人間に」
「何を根拠に、そのような戯言を!」
「根拠などありません。まだね。ただ見極めを誤って、逆に国賊の謗りを受けるなどという醜態を晒されぬようご忠告申し上げているまで」
「鈴木さん、その侮辱、聞き捨てならんぞ」
真田が、一歩前へ踏み出した。
枯れ草が音を立てる。
大蔵は冷徹な笑みを浮かべた。
「言葉が過ぎました。近頃、あちこちから同じような引き合いがあって、正直、辟易しているのです」
「それでも、あなたは動かないと言うのか!」
「くどい。これは攘夷の名を騙った茶番だと申し上げている」
真田がギョロリとした眼を剥いて、刀を抜き放った。
「貴様!」
「おやめなさい。尽忠報国を掲げる者が私闘など」
しかし、言葉とは裏腹に、大蔵の顔に張り付いた笑みは消えない。
「腰に差しているそれは飾りか。抜け!」
真田は既に間合いを取っている。
大蔵は、なんの躊躇もなく愛刀「三郎兼氏」の鞘を払った。
鋼の塊がギラリと光るさまは、なぜか現実のものとは思えない。
大蔵も抜き身を構えた相手と向き合うのは初めてだった。
背筋を冷たい汗が伝う。
真田が土を蹴った。
大蔵は、自分の左上から振り下ろされてくる剣先を、他人事のような心地で見ていた。
しかし、身体は反射的に間合いを詰め、鍔元でそれを受け止める。
雑木林に剣戟の音が響いた。
素早く引く真田を追って、大蔵は、片腕で横薙ぎに刀を払う。
「はっ!稽古のようにはいかんな」
切っ先をかわした真田が不敵に笑った。
大蔵は刀の重さに耐えかねたように、正面に構えた両腕をだらりと下げている。
しかし、その瞳には暗い光が宿り、口元にはまだ歪んだ笑みを湛えていた。
「抜いた途端に獣みたいな眼になりやがって」
真田が八相に構えて、唾を吐いた。
大蔵の刀が、真田の咽喉元を狙って、地面から迫り上がる。
刃は真田の鬢をかすめたが、すんでのところで振り払われた。
勢いを逸らされた大蔵は、大きく体勢を泳がせた。
真田が建て直し、再び大蔵に斬りかかろうとしたその時、
「先生!」
と木々の間から子供の声が聴こえた。
「来るな!平助!」
木の根元に片腕をついた大蔵が叫んだ。
「先生!」
朽ちた葉を踏みしめる音とともに、藤堂平助の声が更に近づく。
「…ちっ、やってられるか」
真田範之輔は刀を鞘に納めた。
平助が、そこに辿り着いたとき、既に真田の姿は無かった。
大蔵は、大きなクヌギに背中を預け、膝を半分折るような姿勢で、ようやく立っていた。
今頃、心臓が早鐘のように鳴っている。
なぜか笑いがこみ上げてきた。
大蔵は額を掌で押さえながら、低く笑った。
平助は、所在無げな様子で、傍らに佇んでいる。
その手には、二尺八寸はある凝った拵えの長刀が握られていた。
「来るなと言ったろ」
大蔵は、疲れきった声で平助を叱った。
「先生が、これを忘れて行ったから、追いかけて来たんだ。そしたら、林の間から、先生が斬り合ってるのが見えて」
平助は、クヌギの根元に抜き身のまま転がっている「三郎兼氏」と自分の持ってきた長刀を見比べて、うなだれた。
「私はひょっとしたら今日、端からやり合うつもりだったのかも知れん。だからその刀を持ち出さなかったんだ。こんな詰まらん諍いで、それを刃こぼれさせる訳にはいかんからな」
平助はその長刀を両手で捧げ持つようにしてじっと見詰めた。
気の早い鈴虫が近くで鳴き始めた。
まだ明るい空を見上げて、大蔵が大きく息を吐いた。
「斬られた?」
平助が心配そうに聞いた。
「いや」
「ほんとに?」
「ああ。お前が通りかからなきゃ、今頃斬られてたかもな」
自嘲するように言って、大蔵はまた、声を殺して笑った。
平助は、師匠の気が触れたのではないかと不安そうな顔をしている。
「…私は、何を捨て鉢になってるんだ。まだ金子先生から答えも聞かぬうちに斬り合いなど」
座り込んでしまった大蔵の肩を、平助の小さな手が掴んだ。
「先生。もう行こう」
「…こと」
平助は、大蔵が小さな声でそう呟くのを聞いた気がした。




