詮議
翌日、神田お玉が池玄武館、表座敷。
稽古中に呼び出された中沢良之介は、道場主千葉周作、清河八郎と共に、師範代の海保帆平が「それ」を読み終えるのを待っていた。
「これは?」
海保帆平は、書簡にザッと目を通すと顔を上げた。
眼光は、剣客のそれだ。
彼は、齢十八にして免許皆伝を得た一門の白眉とも言われる高弟で、本来、向き合う清河八郎と共に、千葉の信頼も厚い。
若くして師範代となった海保は、水戸藩に仕官して後も、藩邸での勤めを終えた後に毎日道場へ顔を出す律儀さを持ち合わせていた。
「巷で『白旗書簡』と呼ばれている代物です」
清河八郎が、キセルを咥えながら答えた。
「なかなか扇情的な文言が並んでいますな」
玄武館きっての剣客は清河をじっと見返した。
「海保殿には、それに見覚えがございますまいか」
「ふむ。…いや、噂は存じておりますが、実際に目にするのは初めてです」
その重厚な語り口は、海保その人の実直さを端的に現している。
「それは面妖な」
清河は、言葉とは裏腹に、事も無げな様子で煙を吐いた。
「随分と持って回った言い方をなさいますが、この書簡が私と何か関係あるのですか」
「それは私にもわかりません」
「話が一向に見えないが」
海保は、師千葉周作へ問い掛けるような視線を送った。
千葉は何も語らず、目を閉じている。
「ことの発端は、先日この千葉道場に駆け込んだ番所からの使いです」
清河が再び口を開き、一同は彼に向き直った。
「門下の吉永何某という浪人が、昏倒して番所に運びこまれたという報せを持って来たのです。当然、それだけであれば、家族の者に引き取りに行かせるのが筋でしょう。が、使いの者が言うには、その男は、30両もの大金を懐に入れておったそうなのです。問題は、男の懐中から一緒に出て来た半紙で、そこには諸々の金の回収先と、その金を品川宿にある釜屋という旅籠に届ける様にとの走り書きがありました」
「それで?」
清河は、海保の鋭い視線をサラリとかわした。
「その走り書きによれば、受取人は『神田お玉が池玄武館師範代 海保帆平』、つまり貴方です。番所では、額が額だけに、先ずは道場に報せた方が良かろうと気を回したのでしょうな」
「まったく身に覚えがござらん。そもそも、男はなぜ番所に担ぎ込まれたのです」
海保帆平は、色をなして応えた。
「どうやら、男は集金した小判の重みに魔が差したものか、その金を横領して、花街で遊興に耽っていたようなのです。そこを何者かに見つかり、争った挙句に、ノされたという次第ですな」
「何者かとは誰です?」
「貴方にわからないものが、私に判りましょうや。その金を受け取るはずだった人間と利害関係のある誰か、としか申せません」
「相手の男は、金を取って行かなかったのですか?」
良之介が初めて口を挟んだ。
海保が、何故この男が此処にいるのかと、もの問いた気な目で良之助を見る。
清河は、良之助ではなく、海保に向かって答えた。
「二人が大立ち回りを演じたのは、待合茶屋の裏庭で、騒ぎが大きくなり過ぎた為に、喧嘩相手も泡を食ったらしく、店の者に平謝りで帰って行ったそうです」
「ではその吉永何某を、ここへ呼びたてて頂きたい。私が直々に詮議いたしましょう」
「それが出来れば手っ取り早いのは承知ですが、岡っ引きが番所を留守にしている最中に、件の金を持って遁走して終い、それきり行方が知れません」
「なれば、今の私には、何も申し上げるべきことはございませんな」
「ただし、男は、姿を消す前にこんな事を言ったそうです。この40両は…つまり彼奴は既に10両を使い込んでいた計算になりますが…、この40両は本来、メリケンから来た恥知らずの奴輩を討つ為の金だと」
「ふん、私はあの時、浦賀にいたが、毛唐どもが恥知らずと言うのは当っておるでしょうな」
海保は、悠然と海面に浮かぶ黒船の姿を思い出したのか、面白くもなさそうに吐き捨てた。
「ただし、さしものペリーも、厚顔無恥にかけては、この吉永に如かずですよ。ともあれ、吉永はこの『白旗書簡』への怒りにほだされて、この仕事を請け負ったと語ったそうです」
「なるほど。清河殿は、私がそういった連中を扇動して、金策をしておるのではないかと言いたい訳ですか」
海保は怒気をはらんだ声で、三人の顔を順番に見渡した。
「いやいや、そうではありませんが…」
清河は薄く笑った。
千葉周作門下の二人の高弟は、互いに非凡な才を持ちながら、その本質とでも言うべきものは、まるで合せ鏡のように何から何までが対極にあった。
「そ奴らが本心から攘夷を望んでおるなら、同調するもやぶさかではないが、あいにく、私にこのような話を持ちかけた者は、今のところないと申し上げておきましょう」
海保はそう言って、書簡を手の甲でパシリと弾いた。
「ことはそれで済まされるほど、簡単ではないのです。さる筋によれば、そうした幕府の不手際を喧伝するような文書の存在が、下々の口の端に上ること自体、目に余るというわけです」
「笑止!」
「なにを狭量なと思われるかも知れんが、そんな事を言いそうなのが誰であるかは、想像に難くないでしょう?お歴々は何故か、この玄武館に疑いの目を向けておるのです」
「清河先生、もうよしませんか?海保先生は関係ないとおっしゃっている」
一触即発の気配に、良之助がたまらず割って入った。
「海保くん、不愉快な思いをさせて相済まなかった」
千葉が、良之助を後押しするように、強引に話を打ち切った。
「しかし、解ってくれ。君の高潔な人格までも疑った訳ではないということを。例え、この書簡を流布したのが君であっても、決してそれは恥ずべき行為ではないと思えばこそ、君に話を聞いたのだ」
「先生がそう仰るならば、そのお言葉、額面どおりに受け取っておきます。然らば」
海保は怒りも顕わに席を立つと、一礼して部屋を出て行った。
「清河君、言葉が過ぎるぞ」
千葉が片目をすがめて清河を睨んだ。
「すみません。わたしゃ、どうも昔から舌禍を引き起こすきらいがございます。さてとそれで、どうしたもんでしょうかね。皆さん、彼の言い分をどう見ます?」
「どうもこうも、海保君がああ言うなら、その通りなんだろう」
「先生は剣技に長けておられるが、政治の駆け引きには不向きのようだ。な?中沢君」
良之助は突然水を向けられて、泡を食った。
「そ、そうでしょうか。私にも海保先生が嘘を仰っているようには見えませんでしたが…」
「やれやれ、揃いもそろって平和な人たちだな。さあて、それじゃ私は、庭でやってる下手糞どもの据えもの斬りでも見物してから帰ります」




