呼子
市谷甲良屋敷の試衛館道場には再び門人たちの掛け声が響いていた。
「いったい、これを誰が?」
縁側に腰掛けた山南敬介は、その書簡に目を落としながら尋ねた。
「持ってきたのは、そこにいる小僧です」
試衛館道場の跡継ぎ島崎勝太は、庭先で犬とじゃれ合う沖田宗次郎を顎で指した。
山南は書簡から顔を上げて、少年を見た。
「きみ、どこでこれを?」
「それは只じゃ教えらんないね。あと、わたしは小僧じゃない」
宗次郎は、島崎を指差して顔をしかめて見せた。
「勿体をつけないでくれよ」
中沢良之助が、宗次郎ににじり寄った。
宗次郎は、大柄な良之助の顔をほとんど直角に見上げて、胸先にその指を突きつけた。
「じゃ、さっきの続きといこう」
「続き?」
宗次郎は悪戯っぽく笑った。
「お琴さんが、源さんに勝ったら教えてあげる」
「悪ふざけが過ぎるぞ」
宗次郎の姉婿、沖田林太郎が、嗜めた。
「山南さんも、そう思うかい?」
宗次郎は、山南を試すように問いかけた。
山南は、肩をすくめて笑って見せる。
「ねえ、みなさん、勘弁してくださいよ」
井上源三郎が、情けない声で、自分を置いてけぼりに進んでいく話を遮った。
「源さんもああ言ってんだろ」
島崎が面白がるように、宗次郎を睨んだ。
「ちぇ、わかったよ。じゃ、勝負は次回にお預けだ。いい?お琴さん」
「え?ええ」
琴は苦笑いでうなずいた。
「お琴さんが勝ったら、次はわたしが相手をしよう。でも負けたら、源さんに付き合って、高田の穴八幡で『一陽来復』のお守りを貰って来るんだ」
井上は真っ赤になって、宗次郎の肩を掴んだ。
「宗次郎、なに言ってんだおまえ?」
「そうだ。なんの義理があって姉上がそこまで!」
姉思いの良之助も、割ってはいったが、宗次郎は耳を貸さない。
「露店とかもいっぱい出るし、きっと楽しいぜ?」
「あの…、井上様が困っておられますが…」
琴が、申し訳なさそうに井上を窺った。
「いやいや、そんなことは。そういうわけでは…」
井上がしどろもどろで言い訳を始めるを、宗次郎が遮った。
「あの日さあ」
「え?」
宗次郎が唐突に真顔になったので、井上が怪訝な顔をする。
「ほら、出稽古の帰りに、源さんと深川八幡に寄ったあの日。やっぱり露店がいっぱい並んでてさ」
「お前が、勝手にフラフラ入って行っただけだがな」
井上は、ぼそりと呟いたが、宗次郎が何か大事なことを言おうとしている様子を察して、それ以上は言わなかった。
「飴を舐めながら射的を見てたら、隣にいた…そうだなあ…勝太さんくらいの若いお侍に、見世物の呼子が近づいて来て、何かを無理やり握らせたんだ。そのお侍、しばらくその紙を眺めてたんだけど、すぐ放り投げて行っちゃったんだよ。で、何かなあと思って拾ったのが、それさ」
宗次郎は、山南の手にあった「白旗書簡」を指差した。
一同は押し黙った。
「見世物の呼子が、自分の意思でそんなものを配り歩いたりするかね?」
島崎が口を開いた。
「…あの男」
井上が、何かを思い出したように、呟いた。
琴には、井上が言う「あの男」が誰か、すぐに思い当たった。
「私に絡んできた、あの時の男ですか?」
井上は我に返ったように、先の言葉を打ち消した。
「いやあ、ただの思い過ごしでしょう。どうにも場違いな男だったので、それと何か関係があるのかなと勘ぐってしまっただけです。なぜあんな処にいたのか、ちょっと気になっていたもんですからね」
「私には、九条家の縁者だとか言ってましたが」
「九条家?」
良之助が聞き返した。
それはまさに、玄武館に「白旗書簡」の件でねじこんだ「やんごとなき」家柄の名だった。
「ええ。藤の定紋の羽二重を着てた」
「『九条藤』か…本物でしょうか」
山南は、何か考えるときの癖らしく、顎に手をやった。
「どうでもいいよ、そんなの。とにかく。約束だぜ、お琴さん」
宗次郎の声が、それぞれの思案を断ち切った。
「穴八幡ですか?」
琴が小さく微笑んだ。
「だから、それはあんたが負けた時さ」
「その時は、わたしもお供しましょう」
山南が真面目な顔で、顎に指を触れたまま、琴の方を見た。
「あんたも?」
宗次郎が露骨に嫌な顔をした。
「ええ、これからも、時々お邪魔してよいでしょうか」
「山南さん…、それは歓迎だが」
島崎が困った顔で腕を組んだ。
沖田林太郎が、言いよどむ島崎を代弁した。
「あんたはなかなかの使い手だが、剣以外のことも少しは学んだほうがいいと思うぜ」
「…?もちろん、棒術や柔術の方も、御教授頂きたい」
「そうじゃなくて、人生の機微ってやつさ」
「メリケンの奴らにゃ、そんなもん通用しねえよ!」
良之助が、琴の腕を乱暴につかんで引き寄せた。




