告白
「先生は、尻込みされるんですか」
温厚な三ノ宮卯之助が語気を荒げた。
人気のない杉山道場に怒声が響く。
「まあ、どう取っていただいてもいいが、この件に関しては、暫く静観するつもりです」
道場の隅で竹刀を振るっていた藤堂平助が、卯之助の大声を聞きつけて近づいてきた。
「なんでもない」
鈴木大蔵は片手を上げて平助を制すると、安心させるように笑顔を見せた。
「この書簡を見て、鈴木様のような若者が全国で義憤に打ち震えております」
卯之助は声を抑えて、大蔵ににじり寄った。
「その気持ちは私も同じです。ここに書かれていることが本当ならば」
「これが偽書だと仰るのですか。現に条約は成されたんですよ?」
「ではこれをばら撒いて同志を集い、それからどうします。使節の宿舎を焼き払いますか」
大蔵は鋭い目で卯之助に問いかけた。
卯之助はその視線を真っ向から受け止めると、興奮した様子で切り返した。
「そいつあ私の考えることじゃあ、ありません。だがそれもいい」
「卯之助さん、あなたはいい人だ。幕府の弱腰には私も忸怩たる想いだし、あなたの力になってあげたい気持ちもある。しかし、この件には、そういう純粋な動機とは別に、なにか陰謀めいた思惑があるように思えてならないのです。悪いことは言わない。あなたも手を引いたほうがいい」
大蔵は、噛んで含めるように卯之助を説き伏せた。
卯之助は少し落ち着きを取り戻すと、穏やかな口調でそれを否定した。
「そりゃあ、先生の思い過ごしです。現に水戸では我々の動きに呼応して、斉昭公腹心の藤田東湖様以下、大勢の壮士が集い、機を窺っております」
藤田東湖というのは、後に大流行する『尊皇攘夷』という言葉を考え出した学者である。
このたった四文字の言葉が、この後独り歩きをはじめて、日本中を大混乱の渦に巻き込んだ。
「いったい、あなたにそれを吹き込んだのは誰です。海保殿の入れ知恵ですか。いや、それが誰であれ、そのような水戸藩の内情まで部外者のあなたに話すのはおかしいと思いませんか」
卯之助は応えず、尚も大蔵の眼をじっと見据えていたが、やおら席を立つと踵を返した。
「先生、残念です。私はまだ暫くは深川におります。気が変わったらいつでも訪ねてください」
荒々しく玄関を出てゆく卯之助の後姿を見ながら、大蔵は思案顔で冷めた出涸らしの茶を飲み下した。
「先生」
平助が心配そうに声をかけた。
大蔵は黙ってうなずくと、しばらくの間何事か考えていたが、やがて立ち上がると衣紋掛けからちりめんの羽織を引っ掴んだ。
「…ちょっと出かけてくる。留守を頼む」
「ええ!?稽古は??」
「また今度だ。こんな大金をいつまでも此処に置いておくわけにもいくまい。返してくる」
大蔵は、先ほどの金子を懐に仕舞った。
「嘘つき!」
平助は、凝った拵えの長刀を帯びる大蔵の姿を睨み付けながら、頬を膨らませている。
大蔵は、玄関を出たところで、仁王立ちする平助を振り返り、
「帰りに日本橋できんつばを買って来てやるから」
と言い訳して、麹町の道場を後にした。
大蔵は、「上総介兼重」などと言う高価な長刀を腰に帯びている平助の姿に、かつての自分を重ねていた
しかし、その利かん気は、むしろ弟の多聞を思い起こさせる。
今年で十七になるはずだったが、長じて殆ど会う機会のない大蔵にとって、思い出されるその姿は、今の平助と同じくらいのやんちゃな少年のままだ。
彼は、半蔵門の方へ道を折れながら、こんな時にあらぬ事を考えている自分が可笑しくなった。
この刀を差して、州崎遊郭へ向かう道が、過去の記憶を呼び起こすに違いない。




