師弟
同時刻、神田駿河台にある小栗家の広大な屋敷内には、清河八郎の姿があった。
後世に明治の父とまで評された小栗上野介こと詰警備役小栗忠順の屋敷である。
その敷地内には、清河にとって朱子学の師である安積艮斎が主催する私塾「見山楼」がある。
「寄りにもよって旗本屋敷ん中で哲学を学ぶなんてなあ、悪い冗談だな」
築山の連なる豪奢な庭園を横切り、見山楼がある別棟の前まで散策するようにブラブラ歩きながら、清河は独り毒づいた。
白髪の男が、待ちかねた様子で離れの玄関に立ち、清河を迎えた。
今や日本全国を驚天動地に陥れたフィルモア大統領の国書を翻訳した、安積艮斎その人である。
「久しいな。清河君」
「ご無沙汰しております、先生。どうもこのお屋敷は、拙者には敷居が高く、足が遠のきがちでござった。このうえ直々にお出迎えとは、畏れ入ります」
「急に呼び立ててすまん。ちと相談がある」
安積艮斎は、清河の軽口にはクスリとも笑わず、彼が履物を脱ぐ間も惜しいと言わんばかりに口火を切った。
「水くさいことを。それに私の方にも先生に御用がございます」
「まあ、奥へ」
書斎へ通された清河は、眉根をよせて辺りを見渡した。
「今日に限って人気がございませんね」
「人払いした。そんなわけで、茶も出せんが」
「お気遣いなく。それにしても、なにやら物々しいですな」
清河は薄く笑うと刀を置いて正座した。
「察しの通りだ。どうも不味い事になった。これから話すことはくれぐれも内密に頼む」
安積は、腕を組んで差し向かいに座る。
「承知」
「聞くところによると、昨今世に出回っている『白旗書簡』の件で、君は動いているそうだな」
「やはり。先生のお耳にも届いておりましたか」
清河はピクリと眉を動かしたが、顔色を変えなかった。
「こんな所に間借りしておると、色々聞きたくない話も耳に入ってくる。それに、ペリーの国書を訳したのは他ならぬ私だ」
「もとより。しかし件の書簡はあれとは別物にござる」
清河はそう言うと、秋珊瑚の赤い実が映える庭園に目を移し、雀がなにやら啄ばむ様子を眺めた。
「清河君。どうか腹蔵なく話してくれたまえ。あの『白旗書簡』が偽書であることは誰よりも私が知っておる。だが…」
清河は安積の鋭い視線を無言で受け止めた。
「あれは、ペリーの国書の内容を知っているものにしか書けぬ」
「これはしたり。先生は、ご自分の言葉の意味するところを解っておられますか」
安積は、眉間の皺を一層深くした。
「無論。翻訳した複本があるのは、江戸城本丸と、此処だけだ」
清河は、その返答を吟味する様に目を伏せ、小さく深呼吸した。
そして、片眉を上げて安積を見返した。
「つまりこの見山楼に出入りする者がそれを盗み見たと」
「城内にあれを流布して得をする人間などおらぬ」
「ふん、それはどうでしょうか」
清河は、鼻で笑いながら嘯いた。
「相変わらず辛辣だな。しかし、条約の締結を見た今、幕内における足の引っ張り合いと、この件はなんら関係あるまい」
「で、先生は、私にどうせよと仰るのです?」
「君の知っている事を教えて欲しい。あれをバラ撒いてるのが誰で、何故こうも急速に江戸市中に伝播したのか」
「先生がどこから私の動向を漏れ聞いたのかは、この際敢えて聴きますまい。しかしこの仕事は、九条家に仕える、さる高貴な人物から直々の御下命によるものなのです。如何に大恩ある先生からの頼みでも、そう易々とは話せません」
清河は当代随一の朱子学者を前にしても、飽くまでふてぶてしい態度を崩さない。
「あの手紙を見る事が出来た人間は、ごく限られる。君も、その中の一人だと言う事を忘れるな。事が公になれば、君の周りにも累が及ぶぞ」
「脅しとは、先生らしくもない。それに実のところ、まだお話し出来るほどの材料は、私も手に入れていないのです」
清河はここで一旦言葉を切った。
「…しかしまあ、魚心あれば水心と申します」
「君の方の用件とやらは、その事か」
「ええまあ…」
清河はニヤリと笑った。
「ま、確かに、あのインチキ書簡の出どころについては、私も先生と同意見です」
「食えん男だな、君も」
安積は呆れ顔で言った。
「恐縮です、先生。今回の件、私は裏に水戸徳川家有りと踏んでいます」
「清河君。滅多な事を言うものじゃないぞ」
安積は、御三家の名を聞いて儀礼的にそう嗜めたが、さして意外という風でもなかった。
「この見山楼に出入りしている人間で、誰か心当たりはございませんか」
「ここで学ぶ者には、それなりの家格を持つ者も多い。勿論、水戸徳川家と何某かの縁故を持つ人間も中にはいたかもしれん。もっとも『洋外紀略』を上梓して後は、彼らからはあまりいい顔をされておらんが」
「煮え切らないお答えですな」
「旗本の令息と言うのは、得てして世間ずれしておらぬからな。あの様な思い切った真似が出来そうな顔が、どうにも思い浮かばん」
「…なら、奴はどうです?ほら、武骨な顔をしたのがいたでしょう?」
「岩崎弥太郎か。彼は、土佐の郷士の出だ」
「土佐か。藩主容堂公は、水戸の副将軍と仲がお宜しいのでは」
顎をさすりながら、清河が誘うような目をした。
「話が飛躍しすぎだ。土佐の人間は他にも山ほどある」
安積は、言下に否定した。
「そうでしょうか」
「たしかにあの男は、破格の人物だ。が、今はまだ一介の書生に過ぎん」
「今更、先生の人物評に興味はありませんな。奴なら金を積まれれば、国だって売りかねんと思いますが、如何」
清河は、冗談めかした口調とは裏腹に、射るような視線で安積を見据える。
「そうは思えんが。よろしい、一度、鎌をかけて見よう。ただし、君の方も頼むぞ」
高名な学者は、苦々し気に答えた。
「何か分かりましたら、必ず連絡いたしましょう」
言い終わらない内に、清河八郎は、そそくさと立ち上がった。
来た道を引き返し、通りに出ると、清河は大仰な武家屋敷の門を振り返り、独りごちた。
「ちっ!島田め、口の軽い野郎だ。これでは計画を急がねばならん」




