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新選組余話-比翼の鳥-  作者: 子父澤 緊
黒船と白旗 前編
53/76

師弟

同時刻、神田駿河台にある小栗家の広大な屋敷内には、清河八郎の姿があった。

後世に明治の父とまで評された小栗上野介こと詰警備役小栗忠順(おぐりただまさ)の屋敷である。

その敷地内には、清河にとって朱子学の師である安積艮斎あさかこんさい主催しゅさいする私塾しじゅく見山楼けんざんろう」がある。


「寄りにもよって旗本屋敷はたもとやしきん中で哲学てつがくを学ぶなんてなあ、悪い冗談だな」


築山つきやまの連なる豪奢ごうしゃな庭園を横切り、見山楼けんざんろうがある別棟べつむねの前まで散策するようにブラブラ歩きながら、清河はひとり毒づいた。


白髪はくはつの男が、待ちかねた様子ではなれの玄関に立ち、清河を迎えた。

今や日本全国を驚天動地きょうれんどうちおとしいれたフィルモア大統領の国書を翻訳ほんやくした、安積艮斎あさかこんさいその人である。


「久しいな。清河君」

「ご無沙汰ぶさたしております、先生。どうもこのお屋敷は、拙者せっしゃには敷居しきいが高く、足が遠のきがちでござった。このうえ直々にお出迎えとは、おそれ入ります」


「急に呼び立ててすまん。ちと相談がある」

安積艮斎あさかこんさいは、清河の軽口かるくちにはクスリとも笑わず、彼が履物はきものを脱ぐ間も惜しいと言わんばかりに口火くちびを切った。

「水くさいことを。それに私の方にも先生に御用がございます」

「まあ、奥へ」

書斎へ通された清河は、眉根まゆねをよせて辺りを見渡した。

「今日に限って人気がございませんね」

「人払いした。そんなわけで、茶も出せんが」

「お気遣きづかいなく。それにしても、なにやら物々しいですな」

清河は薄く笑うと刀を置いて正座した。

「察しの通りだ。どうも不味い事になった。これから話すことはくれぐれも内密に頼む」

安積は、腕を組んで差し向かいに座る。

「承知」

「聞くところによると、昨今さっこん世に出回っている『白旗書簡しろはたしょかん』の件で、君は動いているそうだな」

「やはり。先生のお耳にも届いておりましたか」

清河はピクリとまゆを動かしたが、顔色を変えなかった。

「こんな所に間借まがりしておると、色々聞きたくない話も耳に入ってくる。それに、ペリーの国書こくしょを訳したのは他ならぬ私だ」

「もとより。しかし件の書簡しょかんはあれとは別物にござる」

清河はそう言うと、秋珊瑚あきさんごの赤い実が映える庭園に目を移し、雀がなにやらついばむ様子をながめた。


「清河君。どうか腹蔵ふくぞうなく話してくれたまえ。あの『白旗書簡しろはたしょかん』が偽書ぎしょであることは誰よりも私が知っておる。だが…」

清河は安積あさかの鋭い視線を無言で受け止めた。

「あれは、ペリーの国書の内容を知っているものにしか書けぬ」

「これはしたり。先生は、ご自分の言葉の意味するところを解っておられますか」


安積あさかは、眉間みけんしわ一層いっそう深くした。

無論むろん翻訳ほんやくした複本があるのは、江戸城本丸と、此処ここだけだ」


清河は、その返答を吟味ぎんみする様に目を伏せ、小さく深呼吸した。

そして、片眉を上げて安積あさかを見返した。

「つまりこの見山楼に出入りする者がそれを盗み見たと」


「城内にあれを流布るふして得をする人間などおらぬ」

「ふん、それはどうでしょうか」

清河は、鼻で笑いながらうそぶいた。


「相変わらず辛辣しんらつだな。しかし、条約の締結を見た今、幕内における足の引っ張り合いと、この件はなんら関係あるまい」

「で、先生は、私にどうせよと仰るのです?」

「君の知っている事を教えて欲しい。あれをバラいてるのが誰で、何故こうも急速に江戸市中に伝播でんぱんしたのか」


「先生がどこから私の動向をれ聞いたのかは、この際()えて聴きますまい。しかしこの仕事は、九条家に仕える、さる高貴な人物から直々(じきじき)御下命ごかめいによるものなのです。如何いか大恩たいおんある先生からの頼みでも、そう易々(やすやす)とは話せません」


清河は当代随一とうだいずいいち朱子学者しゅしがくしゃを前にしても、くまでふてぶてしい態度をくずさない。


「あの手紙を見る事が出来た人間は、ごく限られる。君も、その中の一人だと言う事を忘れるな。事が公になれば、君の周りにもるいが及ぶぞ」

おどしとは、先生らしくもない。それに実のところ、まだお話し出来るほどの材料は、私も手に入れていないのです」


清河はここで一旦言葉を切った。


「…しかしまあ、魚心うおごころあれば水心みずごころと申します」

「君の方の用件とやらは、その事か」

「ええまあ…」

清河はニヤリと笑った。


「ま、確かに、あのインチキ書簡しょかんの出どころについては、私も先生と同意見です」

「食えん男だな、君も」

安積あさかあきれ顔で言った。

恐縮きょうしゅくです、先生。今回の件、私は裏に水戸徳川家有りと踏んでいます」

「清河君。滅多めったな事を言うものじゃないぞ」

安積あさかは、御三家の名を聞いて儀礼的ぎれいてきにそうたしなめたが、さして意外という風でもなかった。


「この見山楼けんざんろうに出入りしている人間で、誰か心当たりはございませんか」

「ここで学ぶ者には、それなりの家格かかくを持つ者も多い。勿論もちろん、水戸徳川家と何某なにがしかの縁故えんこを持つ人間も中にはいたかもしれん。もっとも『洋外紀略ようがいきりゃく』を上梓じょうしして後は、彼らからはあまりいい顔をされておらんが」

え切らないお答えですな」

旗本はたもと令息れいそくと言うのは、てして世間ずれしておらぬからな。あの様な思い切った真似まねが出来そうな顔が、どうにも思い浮かばん」


「…なら、ヤツはどうです?ほら、武骨ぶこつな顔をしたのがいたでしょう?」

岩崎弥太郎いわさきやたろうか。彼は、土佐の郷士ごうしの出だ」

「土佐か。藩主はんしゅ容堂ようどう公は、水戸の副将軍と仲がお宜しいのでは」

あごをさすりながら、清河が誘うような目をした。

「話が飛躍ひやくしすぎだ。土佐の人間は他にも山ほどある」

安積あさかは、言下げんかに否定した。

「そうでしょうか」

「たしかにあの男は、破格はかくの人物だ。が、今はまだ一介の書生に過ぎん」

今更いまさら、先生の人物評に興味はありませんな。奴なら金を積まれれば、国だって売りかねんと思いますが、如何いかが

清河は、冗談めかした口調とは裏腹うらはらに、射るような視線で安積あさか見据みすえる。

「そうは思えんが。よろしい、一度、かまをかけて見よう。ただし、君の方も頼むぞ」

高名な学者は、苦々し気に答えた。


「何か分かりましたら、必ず連絡いたしましょう」

言い終わらない内に、清河八郎は、そそくさと立ち上がった。


来た道を引き返し、通りに出ると、清河は大仰おうぎょうな武家屋敷の門を振り返り、ひとりごちた。

「ちっ!島田め、口の軽い野郎だ。これでは計画を急がねばならん」


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