天才
「知り合いか?」
良之助は、庭掃除をしていた青年を何故か睨みつけながら、琴に尋ねた。
「知り合いというか、まあ、そうね。ほら、こないだ富岡八幡宮に行った日。あなたと別れた後、怪し気なお侍に絡まれてるのを助けてもらった」
「そんな話、聞いてない」
良之介は、驚いて琴を振り返った。
「言ってないもの」
琴は無愛想に答えると、男にお辞儀をした。
「先日は、きちんとお礼も出来ず、申し訳ありませんでした。せめてお名前をお聞きしたかったのですが、直ぐに行ってしまわれたので」
「いえいえ、お気になさらず。あの時、人ごみの中に、はぐれていた連れを見つけましてね、慌てていたもんですから。まさか、またこうしてお会い出来るとも思わなかったし」
青年は恐縮するように肩を竦めて、頭を下げた。
「ここの門弟で、井上源三郎と申します」
琴は慌ててお辞儀を返した。
「琴といいます」
「それであの…、道場に何か御用では?」
井上が申し訳なさそうに頭を下げたまま、山南の様子を上目遣いに窺うと、山南は我に返ったように、用件を繰り返した。
「…ああ、そうだ!拙者、山南敬介と申します。島崎先生にご案内願いたいのです」
「どうにも、締まらねえなあ」
良之介が憮然として言った。
「島崎先生?あ、勝太さんか。いたかなあ?すみません、なんせ忙しい人でねえ」
井上は竹箒を立て掛けると、道場の方へ歩き出した。
「先だって、書状にて他流試合を申し込んだのです。快い返事を頂いたので、こうして伺った次第ですが、お忙しいようなら日を改めます」
山南は、特に気分を害した様子もなく、後を追うようにして井上の背中に声をかけた。
「あいや、忙しいと申すのは、そういう意味ではなく、とかく、気忙しい性質の方でして」
井上は、また言い訳するように答えた。
その時、道場の中から背の高い少年が駆け出して来て、井上の脇をすり抜けた。
「宗次郎、勝…島崎先生はいるかい?」
井上がすれ違いざま、器用に道着の襟首を掴むと、少年は勢いで首から下だけ前へ進んで、脚で宙をかく格好になった。
「グエ!なにすんだよ!何?シマザキせんせい?」
宗次郎と呼ばれた少年は、喉首を押さえながら、それが誰の事かしばらく考えていた。
「ああ、勝太さんなら、奥で姉貴の旦那と話してたぜ…お、美人!」
宗次郎は答え終わらない内に、琴の方を見て、目を見開いた。
「ほら。この前、深川八幡で会った女の人だよ。話したろ」
井上は例の人の良い笑顔で、宗次郎に意味あり気な目配せを送って言った。
「へーえ。わたしは源さんの審美眼てやつに、あんまり信を置いてなかったけど、見直したよ」
「こら!なにが…!」
井上は赤くなって、宗次郎を叱った。
彼らのやり取りを見て、良之助は更に不機嫌になった。
「…マセた餓鬼だな」
「子供は正直だから油断できませんね」
山南が琴の方を見て笑った。
琴は困ったような笑顔を浮かべている。
宗次郎は下駄のまま、玄関の上がり框の縁に乗ると、器用に履物を後方の土間に飛ばして、
「呼んで来てあげるよ!」
と奥へ駆けて行った。
「どうぞ、どうぞ。上がって下さい」
井上は宗次郎の下駄を揃えながら、気不味そうに山南たち一行を中へ促した。
道場では、あちこちがささくれた板間のうえで、十人くらいの年齢も格好もバラバラの男たちが一糸乱れぬ動きで組太刀を行っていた。
天然理心流は、山南敬介の北辰一刀流や、鈴木大蔵の神道無念流など、この時代の主流となった近代剣術とは本質的に異なり、柔術や棒術を含む所謂総合武術として体系化された流派で、むしろ古武術の性質を色濃く留めると言われる。
そこには町道場の和気あいあいとした雰囲気の中にも、格闘術の持つ武骨で荒々しい原初的な魅力が、確かに息づいていた。
「気合が乗っている」
中沢良之助は感心して男たちに見入った。
「しかし、彼らは…」
山南が眉をひそめた。
井上源三郎は彼の言わんとすることを察して、話を引き取った。
「ええ。此処にいる者の殆どは、農家や商家の次男、三男です。なにせ、今や、お国は危急存亡の折ですからねえ。ただ、我々の地元多摩では、身分を問わず、こうして武芸を学ぶ者が昔から少なくありません」
「井上さんも、例の黒船騒ぎで、お上にばかりは任せておれぬと腰を上げたクチですか」
良之助は、この試衛館道場のいけ好かない門人にも探りを入れてみた。
「いえいえ、あたしは…。いずれ百姓を継ぐことになるでしょう。これをやってるのは…」
井上はそう言って剣を振る仕草をすると、
「好きだからというのが一番の理由ですが、うちは代々八王寺千人同心の家系で、つまり、半士半農ってやつでして、否も応もなかったんですよ」
「貴公のように、普通に暮らしていく事の難しさを知る人は少ない。ことに我々の様な若輩は。私も脱藩してからそれに気付いた馬鹿者です」
山南は、少し悲しそうな顔で微笑んだ。
「いやそんな。あたしは名の通り、嫡男じゃありませんしね、是非もないんですよ」
井上源三郎は頭を掻いた。
「しかし、志を持つ事も悪くはないでしょう?多摩の気風というのは気持ちが良いじゃないですか。彼らには日の本を守ろうと言う気概がある」
良之助は稽古の様子を見ながら、井上の答えにあてこすった。
「中沢君。サムライは何百年も腰の刀に物を言わせて威張ってきた。今更外敵が攻めてきたといって、彼らを矢面に立たせたのでは筋が通るまい」
珍しく山南が厳しい口調で言った。
良之助は、彼が政治について意見らしきものを述べたのを初めて耳にして少し驚いた。
そこへ、宗次郎が駆け戻ってきて井上に告げた。
「すぐ行くから稽古でも見て待っててもらえってさ」
「稽古中に、師範がいったい何の話をしてるんだい?」
古株らしい井上源三郎は、あきれ顔で不平を漏らした。
「よおし。じゃあ、ちょっと張り切って、いいとこ見せちゃうかなあ。ねえ、源さん!」
宗次郎が井上の肩をぽんと叩く。
「なんだよ?」
「稽古、稽古。お客さん方、勝太さんはもうすぐ来ますから。いつまでも組み太刀を眺めてても退屈でしょう?天然理心流の立合い稽古をご覧いれます」
「おい、道場は今、皆が使ってるだろ?」
「そと、そと!」
宗次郎は、井上の顔を見て、庭先のほうへ顎をしゃくった。
「ふう…いやな余興だねえ」
井上は、渋々庭に出て行った。
山南と良之助は顔を見合わせた。
「驚いたな。この家の子かと思っていたが、彼も弟子か」
「面白そうじゃないですか」
良之助は持ち前の野次馬根性で、真っ先に二人の後を追う。
山南と琴もそれに倣った。
山茶花の良い香りが鼻をつく。
まだ表情にあどけなさの残る少年は、十二、三歳にしか見えないが、上背もあって、竹刀を構える様は大人に見劣りしなかった。
対する井上は、これも格好に似合わず、平正眼はなかなか様になっている。
しかし、ふと構えを解くと、
「待て待て、防具は?」
と片手を上げた。
宗次郎はその下を向いた剣先にちょんと合わせると、
「生っちょろい事、言うなよ!」
と叫んで振りかぶった。
振り下ろされた竹刀をとっさに受け止めると、井上は飛びのいて構え直した。
「無茶苦茶だな」
「あのガキ、筋がいい」
良之助はその剣筋を見て驚いた。
対峙する井上の目つきが変わった。
気合を発して軸足を前に出す。
同時に、宗次郎がその間合いを一気に詰めて、突きを放った。
カチッと竹刀がぶつかり合う音がする。
次の瞬間、井上源三郎はもんどり打って倒れた。
良之助には何が起こったのか分らなかった。
気がつくと、宗次郎はすでに元の位置まで下がっている。
山南と琴は一瞬目を見合わせた。
その俊敏な動き、しなやかな肢体、そして少年の浅黒い肌は、二人に昨日見た黒猫を思い起こさせた。
美しく、無邪気で、残酷な獣。




