道程
中沢良之助が住む神田岩本町から試衛館のある市谷甲良屋敷へは、江戸城の外堀を北に迂回して半刻の道程だ。
途中、小石川にある水戸徳川家上屋敷の前を通ると、塀の外からも後楽園のこんもりした木々の茂みを臨むことができる。
「あそこにあるのが後楽園です。外からは見えないが。『水戸黄門漫遊記』の徳川光圀が造ったそうですよ」
晩秋の穏やかな陽気の中を歩きながら、山南敬介は移りゆく街並みのひとつひとつに説明を加えた。
「今は、九代藩主斉昭公のお屋敷です。そう、攘夷の総本山ですね」
山南は、特に気負う風もなく、その言葉を口にした。
「攘夷」
良之助の語気が鋭くなるのを聞いて、山南と並んで歩いていた琴がチラと振り向く。
そして、話を逸らすように言った。
「父の孫衛門は、若い時分、ひと頃、水戸に居たそうです」
気を削がれた良之助は、顔をしかめた。
「そんな話、俺にはしてくれなかったがなあ」
昨夜、遅くのこと。
山南が辞去して良之助が銭湯へ出かけると、琴はいつものように弟の道着をたたんで、洗濯籠に入れた。
すると、着物の間から、折りたたまれた紙がはらりと落ちて開いた。
琴は、見るともなくそれを手にとって眺めていたが、やがてそこに書かれた文字が意味を成して頭に入ってくると、顔をしかめた。
彼女は、しばらく座ったまま良之介が出て行った引き戸の方をじっと見つめていたが、やがて立ち上がるとその紙を火にくべてしまった。
「まだこんなとこに居たのかよ。姉上も風呂へ行ってこいよ」
肩から湯気を立ち上らせた良之助が帰って来て、琴に声をかけた。
「もう少ししてからね」
姉の膝の上には例の黒猫が気持ちよさそうに寝息を立てている。
良之助はそれを見て、姉がずっと俯いていることに不審を覚えなかった。
そんなことがあった翌日である。
三人は神楽坂を上り、牛込御箪笥町、二十騎町を抜けて、商家が建ち並ぶ街中に、「天然理心流 試衛館道場」の看板を見つけた。
庭先には、枝打ちされていない山茶花が好き勝手に花をつけている。
それは、玄武館とは比べるべくもない、小さな町道場だった。
しかし、中から聞こえてくる気合の入った掛け声が、そこに充満する気概を物語っている。
それは、姉弟に故郷の道場に流れる空気を思い起こさせた。
「ご免!」
門前で山南が声を掛けると、庭先を掃除していた中間風の青年が顔を上げた。
「島崎勝太先生を訪ねて参ったのですが」
山南が取継ぎを申し出ると、青年が近づいてきた。
「ああ、すみません。何でしょう?道場の方がうるさくて聞こえなかった」
琴は人の良さそうなその顔を見て、声を弾ませた。
「…あの時の!」
それは、深川八幡の裏参道で、琴を助けた青年だった。




