異名
夜の四つ、花街にも人通りはまばらになり、州崎の海から運ばれる潮の香りが鮮明に感じられる。
苦界と娑婆を隔てる二重門の前には、すでに駕籠がその男を待っていた。
酩酊した男の足取りを眼で追いながら、清河八郎はさり気ない風を装い尋ねた。
「そろそろ教えて頂けませんか。島田様の後ろ盾となっておられるやんごとなきお方の正体を」
島田と呼ばれた男はくくく、と低く嗤って首を横に振った。
「それはまだ明かせんな。それに、言っても貴公は知るまい。何となれば、そのお方は、まだ中央の表舞台には立っておられぬ。であればこそ、来るべきその時に備えて、私が露払いを務めておる訳だ」
「なれば、敢えて名を伏せる必要もありますまい」
島田は駕籠に身体を預けながら、充血した細い目で清河八郎という男を値踏みしていた。
「その手には乗らん。とは言え、今後貴公と仔細を相談する上で、わが主をいつまでも名無しと呼ぶわけにもいくまい。ではいいことを教えてやろう」
そして、まるで重大な秘密でも打ち明けるように一呼吸置くと、清河に耳打ちした。
「『チャカポン殿』」
清河は、柄にもなく狐につままれたような顔で立ち尽くした。
島田は、清河の反応に大いに満足したらしく、
「ごく気安い方々からはそう呼ばれておられる」
そう言い残すと、如何にも愉快気に笑いながら駕籠の簾を降ろした。
清河は小さくなっていく駕籠を見つめながら、キセルを吹かした。
「未だ全幅の信頼を置くに能わずってか。ま、ご慧眼ですな」




