黒猫
神田岩本町、割長屋の狭い居間で、三人は食卓を囲んでいた。
開け放った窓からは、心地いい風が入ってくる。
風に乗って虫の鳴く声が聞こえていた。
「これは?」
何かを納豆と和えた惣菜を箸で摘みあげて、山南敬介が怪訝な顔をした。
「そぼろ納豆です。お口に合いませんか?」
琴は、山南の顔色を伺うように少し上目遣いでたずねた。
「せっかくお客が来たんだから、こんな貧相なもん出すなよ」
良之助はそう言うと、大口を開けて沢庵を放り込み、ボリボリ音を立てて噛み砕いた。
「不調法ですみません」
琴は恐縮して頭を下げた。
「いや、そんなことはありません。大変美味しいです。なるほど、中に入っているのは切干大根ですね」
「常州では、醤油で納豆と和えて食べるんです」
「そうですか。私もやってみよう」
山南は考え込むように小鉢を眺めてゆっくりと味わった。
良之助はその様子を見ながら、
「山南さん、大したおもてなしは出来ませんが、これからもちょくちょくいらして下さい」
とさり気なく水を向けた。
山南は姿勢良く背筋を伸ばしたまま、箸を止めた。
「有難いが、君に再々ご馳走になる理由がない」
「懇意にして頂きたいと言うだけでは、理由になりませんか。白状しますが、あなたに会うまで私は江戸に出てきたことを後悔していました」
山南は先を促すように瞬きした。
「天下に名を轟かせる玄武館も、見ると聞くとでは大違いだと」
「君には、北進一刀流は、物足りませんか」
琴は、良之助の椀に飯をよそいながら、黙って二人の会話を聞いている。
「いえ、現にあなたのような達人が居た。しかし、あそこは正に玉石混交です」
「皆、最初から強いわけじゃない」
山南はそう言って、琴に意味ありげな視線を投げた。
琴はうつむいて、その視線をかわした。
「しかし、腕の立つ者と交わらなければ、研鑽は積めません。山南さんは、どうやってあれ程の剣技を身につけられたのです」
「大袈裟な。私程度の人間は掃いて捨てるほどいるよ。それこそ玄武館の中にもね」
山南は焼き魚をつつきながら笑った。
「では、外はどうです?山南さんは、出稽古にも熱心だと伺いました」
山南は黙考するように視線を落とし、やがておもむろに口を開いた。
「中沢君、知ってますか」
「え?」
「このホッケ」
琴が、顔を上げて山南の方を見た。
「ホッケを上手に焼くのは、なかなか難しい」
「…ホッケですか」
「これは完璧だ。お琴さん」
「あ、ありがとうございます」
琴はどうしていいかわからないように、顔を真っ赤にしてまたうつむいた。
「はぐらかしては困ります。私は強くなりたい。その為に態々江戸まで出て来たんですから!」
良之助が焦れた様子で詰め寄っても、そのホッケを咀嚼する間、山南は目を閉じたままそれに応えなかった。
「君は、私のことを買被り過ぎだ。今日は、たまたま君の調子が悪かっただけかもしれない。道場では失礼なことを言ってしまったが、未熟なのは、私も同じ。私の剣は、理に勝ちすぎて、気合や勢いと言うものに欠ける」
「そんなことは聞いていません!」
良之助は、尚も食い下がった。
山南は、熱い茶を一口すすってから言った。
「明日、市谷の試衛館という道場に行こうと思ってるんだが。良かったら君も来るか?もともとは多摩の流儀で、道場の跡取り、島崎勝太は、我々と同世代ながら、質実剛健を絵に描いたような男らしい。何かしら得るところもあろう」
「願ってもない」
良之助は勢い込んで、口角から米粒を飛ばした。
山南はそれを見て笑いながら、
「お琴さんも、散歩がてら一緒にどうです?まだ江戸の町をゆっくりご覧になっていないのではありませんか」
と琴の方に向き直った。
良之助は、赤くなって戸惑う琴を見て嬉しそうに目を細めたが、同時に生真面目なこの山南敬介という侍が、鹿島大明神の聖域たる道場に女を誘う意図を訝しんだ。
その時、庭先で猫が一声鳴いた。
「おや、黒猫だ。ホッケに吊られたか。これは縁起がいい」
山南が縁側を覗き込むようにして言った。
「あの子は、夕飯時になると毎日来るんです」
琴が笑った。
「二人とも夜目が効くなあ。私には声しか聞こえない」
良之介は大柄な身体を乗り出し、庭のほうを睨みながら、感心して言う。
「なんだ、姉さんは見えるのに、君は駄目かい。どうも君達は似ないな」
山南と良之介はようやく穏やかに笑いあった。
しかし、その時琴が少し複雑な笑顔を浮かべているのに二人は気付かなかった。




