密談
「その話、信用していいのだろうな」
洲崎界隈の揚屋へ出入りする客としては、おおよそ似つかわしくない西陣の羽二重を着た男は、不機嫌も顕に言った。
しかしまた、その容貌には、高価な衣装や洗練された立ち居振る舞いでは、到底隠し仰せない下卑た雰囲気のようなものが、まとわりついている。
酌をする花魁は、まるで汚いものでも見るような表情を隠そうとしなかったが、男は気づかない。
「鵜殿長鋭様なら、脈ありです。不本意なお役目に、歯噛みされておるとか…」
差し向かいに座る清河八郎が、静かに口を開いた。
「いずれにせよ、これ以上の成果を望むには、海保何某とかいう旗本の名前では役不足だ」
「お言葉ですが、剣の道を志す者にとっちゃあ、海保殿の名は相応の意味を持つはずですがねえ」
「剣豪などと言うカビの生えた肩書に釣られるのは、精々安っぽい浪士風情だ。所詮大声で刀を振り回すだけが取り柄の烏合の衆。目付けを取り込むことが出来れば…」
清河は、男が酔いに任せて花魁の前で口を滑らさないよう、口の前で人差し指を立てて見せた。
男は白くむくんだ指先で、盃を眼前に弄びながら唇を舐めた。
「ちっ!不味い。どこの酒だ?」
清河八郎は、その赤ら顔を一瞥してから、ひょいとつまみあげた徳利に眼を移した。
「さぁて…」
花魁は、清河の目配せに自分も知らないと素っ気なく首を振って見せた。
「ここの主人は常陸府中の産で、あちらの造り酒屋のものを仕入れておりますとか」
清河に侍っていた小亀がおずおずと口を開いた。
小亀は、常連の清河に伴われてきた正体不明のこの男が、嘗め回すように自分の躯を見るのに、ずっと耐えていた。
「常陸か。どおりで垢抜けん」
男はやや呂律の廻らない口調で、また毒づいた。
「お口に合いませんか?」
「酒は、上方に限る」
「常陸府中辺りは『関東灘』なんて言われてるみたいですがねえ」
無愛想なほうの花魁が口をはさんだ。
「ほう、紅梅太夫は詳しいな」
清河が眼を丸くした。
「前にうちに居た新造が志筑の出で、その受け売りですよ」
「関東灘か。灘の酒を舐めたこともない田舎者が、見栄をはりおる」
男はそう言うと、殊更に大きなげっぷで、侮蔑を強調した。
花魁の眼に怒りの色を察した清河は、彼女が腰を浮かそうとするのを掌で制すると、
「まあまあ。では灘とはいきませんが、伏見の酒でも如何です?」
と取り成した。
「ほう。京の下り酒か。そいつは雅だな」
「悪いけど、ここにゃそんな上物は御座いませんよ」
紅梅がぴしゃりと言った。
清河は刀掛台の脇に置いてあった風呂敷包みを手繰り寄せて、解いて見せた。
「京土産だ。こんなもんを揚屋に持ち込むのは無粋と承知だが、此処に来る前、上方の巡業から帰ってきた知り合いに会ったばかりでね」
そう言うと「玉の泉」と墨書された一升徳利を傍らの女に押しやった。
「小亀、悪いが下女に言って、燗を付けてもらえるかい。三つだ。あんた達も飲むだろ?」
「はい」
小亀はにっこり微笑むと襖を開けて手を叩いた。
「清河様、さっき巡業とかおっしゃいましたが、どういった生業のお知り合い?」
先の言葉を聞きとがめた紅梅が、怪訝な顔でたずねた。
もう一方の男が軽く咳払いすると、清河は余計なことを口走ったとばつの悪い顔をして、
「ま、私みたいにあちこちフラフラ出歩いてると、色々変わった知り合いも出来んのさ」
と、おどけて見せた。
紅梅は、不審げな面持ちで傍らの男と清河の顔を見比べてから、溜息を一つついた。
「相変わらずあんたは得体が知れないねえ」
それは、気心の知れた馴染みに対する口調だったが、この見知らぬ客への当てつけに違いなかった。
清河は紅梅の皮肉には気付かぬ体を装い、本題を切り出した。
「これ以上、漫然と杯を重ねても詮無いこと。鵜殿様とのお引き合わせについては、後ほど手筈を考えるとして、まずは例の手紙の件、首尾をお話しさせて頂きましょうか」
「ここで?」
男の口調からは、これから此処で交わされる会話が、人目をはばかる類いのものであることが察せられた。
「あたし達は外した方がようございますか」
紅梅はまるで救われたと言わんばかりに申し出た。
「ううむ…」
男は明らかに、下心と猜疑心の間で逡巡していた。
頬の肉に押し上げられて細くなった眼が、二人の遊女の躯を這い回った。
紅梅はその視線を嫌悪するあまり、思わず身悶えしたが、一方の小亀は、全く別のことに気を取られていた。
清河の口から漏れた「例の手紙」という言葉は、先日大蔵から聞かされた話との妙な符合を感じさせた。




