敗北
中沢良之助は困惑していた。
その朝、彼は「名門玄武館に入門が叶ったからには、なんとしても免許を授かる」と、姉の琴に大見得を切って家を出た。
そして、北辰一刀流という巨大な敵に懐を借りるつもりで、この道場に足を踏み入れたのだ。
しかし、師範代から「技量を測るために」申し付けられたはずの立合いで、良之助の並々ならぬ決意は、いささか肩透かしをくらった。
入れ替わり立ち代わり出てくる相手は、ものの数合で底が知れるような連中ばかりで、何れも、一度として触れられることなく、打ち据えてしまった。
中目録という肩書きの男から労せず面をとった頃には、果たしてここに学ぶべきものがあるのかという疑念すら頸をもたげてきた。
そして、そろそろ見切りをつける頃合いかというときに、その男は現れた。
山南敬介は、飄然とした佇まいの浪士で、なんとも掴みどころのない男だった。
その構えは退屈なほど型に忠実で、立ち姿は美しかったが、とりたてて威圧感もない。
しかし、竹刀を合せると、良之助はどうも勝手が違うことに気がついた。
何処をどう攻めても陥落することが出来ない。
山南はまるで良之助の頭の中が読めるかのように、全ての攻撃を先んじて封じてくる。
生来短気な良之助は、膠着状態に焦れて、我知らず動作が荒くなっていた。
大きく踏み込んで、振りかぶったとき、山南の胴払いが綺麗に入った。
良之助は呆然自失の体で、振りかぶったまま立ち尽くした。
「中沢君」
山南の冷静な声が、良之助を我に返した。
「あ、はい」
「呼んでるよ」
山南が目配せする方を見ると、師範代が手招きをしている。
「中沢君。先生がお呼びだ」
「私をですか?」
「ああ。君の腕前のほどは、もう十分わかった。行きたまえ」
師範代、海保帆平の言葉は、彼の技量を認めてのものだったが、良之助は「お前では、山南に歯が立たん」と決め付けられたように感じたらしく、面白くない顔をした。
しかし、「技能試験」の目的が果たされた以上、師範代の言葉に従うしかない。
ましてや、総師範千葉周作とは、まだ挨拶も済ませていなかった。
良之助が道場に通されたとき、道場主は不在で、代わって彼を応対したのは、数年後に「千葉の小天狗」として名を馳せる息子の千葉栄次郎だった。
入門者が引きも切らぬこの道場で、一介の浪人が天下に名の知れた剣聖に謁見する機会などそうあるものではなかった。
良之助は、山南との対戦に後ろ髪を引かれる思いで道場を後にした。




