定紋
良之助の姉、中沢琴は、人ごみをすり抜け、裏参道に出てようやく一息ついていた。
「娘御」
背後からの声に振り返ると、羽二重の紋付羽織を着た一目で武家と判る中年の男が立っている。
「はい」
琴は少し辺りを見回したが、それらしい相手が自分しかいないことに気づいて返事をした。
「連れはなしか」
男は陣笠を目深にかぶっていて、表情までは読めない。
彼女は警戒するように、笠の奥にあるはずの眼を窺った。
「ええ。そこで別れましたので」
「そう身構えるな。わたしは九条家の縁者で、別に怪しい者ではない」
「なんの御用でしょう?」
胸元の定紋にチラリと眼をやって、琴はたずねた。
「見知らぬ男に声を掛けられるのは慣れているようだな。その器量なら、さもありなん、か…」
「お武家様、私、先を急ぎますので」
「まあ、待て」
男は琴の細い腕をつかんだ。
「人目がございますよ」
琴の刺すような視線に、男が一瞬怯んだのがわかった。
「ふん、私も忙しい身だ。駆け引きは無しにしよう。そのなりは浪人者の娘と言ったところだろう。どうだ?一夜、枕を交わせば五両出そう」
男は気を取り直したように、掴んだ方の掌で琴の腕にそっと指を這わせながら、もう一方の手で陣笠を持ち上げた。
好色そうな吊り上った目元が覗く。
「それだけお持ちなら、洲崎の遊郭へでもいらっしゃいませ」
琴は腕に力を入れて自分の方に引き戻そうとしたが、男の白くむくんだ手はがっちりと食い込んで離れなかった。
その時、
「ねえ、おやめなさいよ。嫌がってるじゃないですか」
二人の様子を見兼ねたのか、中間風の若い男が仲裁に入った。
「なんだ。お前は」
陣笠の男は、青年をにらみつけた。
青年は、どこかへ稽古に行く途中なのか、胴着と木刀らしき袋をぶら下げている。
「子供も見ています。こんな往来で、女を口説くなんて、無粋ってもんでしょう」
「なにを、下郎!」
顔色を変えた陣笠の男は、琴の手首を離すと、刀の柄に手を掛けようとした。
しかし、済んでのところで、青年はその手を制した。
「ね?止めましょう。だって、それを抜いたら、あたしもあなたを斬らなきゃならん。そんな事になれば、お互い面白くないことになります」
陣笠の男は、その時初めて若者が腰に刀を帯びているのに気づいた。
彼は終始優しい口調を変えなかったが、その言葉には妙な迫力があった。
男は舌打ちして、踵を返した。
琴は、汚いものにでも触れたように掴まれた手首をさすりながら、青年に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いやぁ、事なきを得ましたね。実は、あたしも怖かった」
青年は照れたように、人の良い笑顔で答えた。
「お名前をお聞かせください」
琴が言い終らない内に、青年は人ごみの中に誰か知り合いを見つけたのか、短く叫んだ。
「あっ、いたっ!」
釣られて振り返った時には、青年はもう走り出していた。
「宗次郎!おい!宗次郎!」
彼は叫びながら、人の波にそのまま紛れてしまった。




