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新選組余話-比翼の鳥-  作者: 子父澤 緊
黒船と白旗 前編
38/76

定紋

良之助の姉、中沢琴は、人ごみをすり抜け、裏参道うらさんどうに出てようやく一息ついていた。


娘御むすめご


背後からの声に振り返ると、羽二重はぶたえ紋付羽織もんつきはおりを着た一目で武家と判る中年の男が立っている。


「はい」

琴は少し辺りを見回したが、それらしい相手が自分しかいないことに気づいて返事をした。


「連れはなしか」

男は陣笠じんがさ目深まぶかにかぶっていて、表情までは読めない。

彼女は警戒するように、笠の奥にあるはずの眼をうかがった。

「ええ。そこで別れましたので」

「そう身構えるな。わたしは九条家の縁者えんじゃで、別に怪しい者ではない」

「なんの御用でしょう?」

胸元むなもと定紋じょうもんにチラリと眼をやって、琴はたずねた。

「見知らぬ男に声を掛けられるのは慣れているようだな。その器量きりょうなら、さもありなん、か…」


「お武家ぶけ様、私、先を急ぎますので」

「まあ、待て」

男は琴の細い腕をつかんだ。

「人目がございますよ」

琴の刺すような視線に、男が一瞬(ひる)んだのがわかった。


「ふん、私も忙しい身だ。駆け引きは無しにしよう。そのなりは浪人者の娘と言ったところだろう。どうだ?一夜、まくらを交わせば五両出そう」

男は気を取り直したように、つかんだ方のてのひらで琴の腕にそっと指をわせながら、もう一方の手で陣笠じんがさを持ち上げた。

好色そうな吊り上った目元がのぞく。


「それだけお持ちなら、洲崎の遊郭ゆうかくへでもいらっしゃいませ」

琴は腕に力を入れて自分の方に引き戻そうとしたが、男の白くむくんだ手はがっちりと食い込んで離れなかった。


その時、

「ねえ、おやめなさいよ。嫌がってるじゃないですか」

二人の様子を見兼ねたのか、中間ちゅうげん風の若い男が仲裁ちゅうさいに入った。


「なんだ。お前は」

陣笠じんがさの男は、青年をにらみつけた。

青年は、どこかへ稽古けいこに行く途中なのか、胴着どうぎと木刀らしき袋をぶら下げている。

「子供も見ています。こんな往来おうらいで、女を口説くなんて、無粋ぶすいってもんでしょう」

「なにを、下郎げろう!」

顔色を変えた陣笠じんがさの男は、琴の手首を離すと、刀のつかに手を掛けようとした。


しかし、済んでのところで、青年はその手を制した。

「ね?止めましょう。だって、それを抜いたら、あたしもあなたを斬らなきゃならん。そんな事になれば、お互い面白くないことになります」

陣笠じんがさの男は、その時初めて若者が腰に刀を帯びているのに気づいた。


彼は終始しゅうじ優しい口調を変えなかったが、その言葉には妙な迫力があった。

男は舌打ちして、きびすを返した。


琴は、汚いものにでも触れたようにつかまれた手首をさすりながら、青年に頭を下げた。

「ありがとうございます」

「いやぁ、事なきを得ましたね。実は、あたしも怖かった」

青年は照れたように、人の良い笑顔で答えた。


「お名前をお聞かせください」

琴が言い終らない内に、青年は人ごみの中に誰か知り合いを見つけたのか、短く叫んだ。

「あっ、いたっ!」


釣られて振り返った時には、青年はもう走り出していた。

「宗次郎!おい!宗次郎!」

彼は叫びながら、人の波にそのまままぎれてしまった。


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