覚醒
「いや、参りました」
茶碗の水を一気に飲み干すと、真田範之介はさばさばした表情で言った。
「実は私、天然理心流もかじっておりまして」
「ほお、確か、多摩の方の流儀ですね?」
大蔵が相槌をうつ。
「ええ。少し撹乱させてやれと思ったのですが、お恥ずかしい。我ながら姑息な戦法でした」
「なるほど、最初のあれは天然理心流の構えですか」
感じ入ったように何度もうなずく大蔵を見て、真田は大きな眼を細めた。
「ご存知なかったんですか。それでいて尚、してやられるたあ、ざまぁねえ…」
「まぐれです」
大蔵も笑った。
「鈴木さんは、まさに壮士だ!」
二人の周りには、いつしか杉山門下の若者達が集まっていた。
真田は一同を見渡すと、急に真顔になって、懐から折りたたんだ書簡らしきものを取り出した。
「時に皆さん。昨今こういったものが流布しているのをご存知か?」
彼はそれを広げると、皆に見えるよう掲げた。
その場にいた全員が身を乗り出す。
大蔵は書簡の文字を眼で追っていたが、その表情はみるみる険しくなっていった。
「なんです。これは」
真田範之介はしたりという表情で笑みを浮かべた。
「米提督、ペリーの書簡を翻訳したものです」
民衆にとって、260年間続いた日常、それは未来永劫続くであろうと錯覚するに十分な時間だった。
しかしその変化は、はっきりと眼に見える輪郭を以て、突如として浦賀沖に現れた。
アメリカ海軍東インド艦隊、マシュー・ペリー提督率いる艦船サスクェハンナ、ミシシッピ、サラトガ、プリマウス。
世に言う黒船来航である。
時の浦賀奉行・戸田氏栄と海岸防禦御用掛・井戸弘道に、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの名代として接見したペリーが突きつけたものは、
「開国」。
それは、幕府が三世紀近くの間、国是として頑なに守ってきた政策を、大きく覆す事を意味した。
同じ年、江戸幕府第12代征夷大将軍、徳川家慶が逝去。
まさしく国家危急の折、将軍職、すなわち日本という国家は、その実子、家定に引き継がれた。
混乱の中、年は明けて、幕府は、なし崩しに日米和親条約を締結する。
世情はまさに騒然としていた。




