定石
-嘉永7年、或いは安政元年頃、晩秋の話-
江戸麹町、神道無念流杉山東七郎道場にて。
鈴木大蔵は、木刀を平正眼に構えて、真田範之介と名乗る武士と相対していた。
時おり訪れる、こうした他流派の修行者達を相手にするのは、もっぱらこの大蔵の仕事だった。
彼は、杉山門下でもかなり若年であったが、屈指の使い手で、来訪者に遅れをとることはまず無かったからだ。
もっとも、今回ばかりは少し勝手が違っていた。
二人は防具もつけず、向き合っている。
対する真田範之介は、大蔵と同じ年頃の若者で、今や江戸剣術界の最大派閥である北辰一刀流、玄武館に籍を置くという。
ギョロリとした印象的な眼が、浮世絵の戦国武将を思わせた。
いかにも武芸者然としたこの若者は、稽古場に通されるなり、
「これで勝負願いたい」
と、大蔵に木太刀を手渡した。
大蔵は少し驚いた顔をしてから、掌の木太刀に視線を落として、そのごつごつとした手触りを確かめるようにしばらくじっとしていたが、やがてうつむいたまま、
「では防具を」
と、近くにいた門徒に声をかけた。
「いや。私には無用」
真田はそれを手で制して拒んだ。
大蔵が少しむっとしたように、相手の顔を睨む。
が、その表情に奢りはみられない。
曰く、通り一遍の稽古に飽き足らず、実戦の勝負勘を養うために、こうした無謀な他流試合を積み重ねているらしい。
鈴木大蔵は、真田とは対照的に、眉目秀麗を絵に描いたような男だったが、こちらも姿に似ず勝気な性分で、謂れのない有利を譲られる事を潔しとしなかった。
仕方がないといった風に小さく溜息をつき、
「そうですか」
と自らも稽古着のまま道場の中ほどに進み出て、静かに構えた。
そんな相手の態度に好意を覚えたものか、真田は少し微笑んだきり、敢えて防具を勧めることはせず、一礼して対峙した。
二人は円を描きながら、互いの間合いを探り合った。
同じく平正眼の真田はやや変則の構えで、木刀の先は斜めを向いている。
大蔵は、美しい女と見紛うような面を、一瞬曇らせた。
相手が北辰一刀流の定石とも言える「鶺鴒の構え」を取らなかったことに、やや戸惑ったようだ。
しかし、敵が隙に乗じる間もなく平静を取り戻すと、仔細かまわず打ち込んだ。
真田は大蔵の切っ先を棟に滑らせ、ギリギリまで懐に引き込むと、大きく跳ね上げた。
しかし、大蔵の木刀は刹那に引き戻され、すでにそこには無かった。
真田が返す刀で袈裟懸けに振り下ろす間もなく、大蔵の突きがみぞおちに入った。
「参りました」
しかしそれは声にならず、擦れた呻きが漏れただけだった。




