尾行
辺りはすでに闇に包まれている。
大蔵は笹川村に入ってからというもの、下村嗣次の背中から常にピリピリした空気を感じ取っていた。
「やっぱり、来たのは間違いだったかもしれない」
「あのなぁ、なんだよ、今さら。」
森山繁之介の怒りも無理からぬことだった。
二人が今いるのは、下総国海上郡は笹川村。
今朝道場を出たときは、存在さえ知らなかった土地だ。
どうやら今日中に水戸に戻るのは絶望的だった。
今頃、向こうでは大騒ぎになっているに違いない。
しかし大蔵が気にしているのはその事ではなかった。
「さっき下村達が出て来た家に『笹川一家』って看板が掛かってたろ?志筑から水戸に来るときに、お供に付いて来た久吉から聞いたんだけど、あの笹川一家ってのは、隣町の親分と揉めてるらしい。3年前に利根川べりで、1000人が入り乱れての大喧嘩があって、その時は半分の500人以上が死んだって」
「なんかそれも、眉唾な感じじゃないか?」
「まあ、久吉の話は、いつも少し尾ひれが付いてるんだけど」
「どうする。後をつけるにしても、こんな人気の無い道じゃ目立つし、身を隠す場所もないぞ」
「さっき一緒に出てったのは、きっと笹川の親分だよ。またあの家に戻って来るだろうから、隠れるのに適当な場所をみつけて、そこで待とう」
「なんだか、嬉しそうにみえるぜ?」
「言ったろ。後悔してるよ。でも、ここまで来てスゴスゴ帰れないじゃないか」
「しょうがない、付き合うか。でもその後どうする」
「正面から行くのはどうやら上策じゃなさそうだし、隙を見て盗むしかないだろ」
繁之介は、ことも無げに言う大蔵に、顔に似ず豪胆な一面を垣間見た。
笹川繁蔵が下村嗣次らに伴われて出掛けて行くのを見届けると、孫次郎は、サラシの上から黒の小袖に腕を通し、手甲に脚絆といういでたちで、ひっそりと笹川一家の裏口を出た。
程なく、中沢と申し合わせた、与助の妻お万の実家に着いたが、中沢孫右衛門の姿はまだ見えない。
孫次郎は、じりじりしながら、それから半刻ほども待ったが、中沢が姿を現す気配は無かった。
「これ以上は待てねえ。何か間違いでもあったか」
仕方なくお万の父に言伝を残すと、鈴木大蔵と森山繁之介が潜む竹藪(たけやぶ)の前を通り過ぎ、ビヤク橋に向かった。
ビヤク橋には、既に境屋与助と成田甚蔵が、岸に舟を着けて待っていた。
二人は虚無僧の装束に身をつつみ、深編み笠、いわゆる天蓋を被っていて、どちらがどちらなのか、孫次郎にも判然としない。
「おまえ、一人か?中沢先生は」
やがて、その内の片方が、与助の声で責めるように言った。
「すまねえ。何かの手違いだと思うが、道に迷ってんのかも知れん。お万さんの家に書置きを残してきたから、追って来るはずだ」
「肝心の時に座頭市の野郎はいねえし、中沢先生がもし間に合わなかったら、俺たちだけで本当にやれるんだろうな」
孫次郎にも袈裟と天蓋を手渡しながら、もう一人の男が不安そうに口を挟んだ。
「下村達がいる。繁蔵の取り巻きがあと何人かいたとしても、こっちは五人だ。如何に繁蔵とはいえ、万が一にも取り逃がすことはあるめえ」
「とにかく、段取りを間違えんな。連中がビヤク橋の中ほどに差し掛かったら、俺たちが虚無僧のなりで後ろから近づいて、退路を断つ。それから、俺が最初に刀を抜いて、繁蔵の気を逸らせる。振り返った奴は、下村先生に背中をさらすことになるから、先生が一太刀入れたら、全員で仕留めるんだ」
与助は、自分に言い聞かせるように、計画を復唱した。
「後は、向こうの数次第だな」
そう言って、孫次郎は今来た道を振り返ったてみたが、やはり中沢が来る様子は無かった。




