04.
一ヶ月後。
国境の砦で、引き渡しの儀式が行われた。
北風が吹きすさぶ荒野。
ミシェルを乗せた馬車の前に、黒い騎馬隊が現れる。
先頭に立つ男。
黒髪に、血のように赤い瞳。
皇帝ギデオンだ。
その威圧感だけで、護衛の騎士たちが震え上がるほどの覇気。
彼は馬から降りると、ミシェルの前に立ち、冷ややかな視線を浴びせた。
「……貴様が、例の『無能王女』か」
声が低い。腹の底に響く重低音だ。
「俺は飾り物の妻など要らぬ。邪魔をするなら斬る。王宮の奥で、息を殺して生きていろ」
初対面で殺害予告。
普通の令嬢なら失神する場面だ。
しかし、ミシェルは違った。
彼女の視線は、ギデオンの顔ではなく、彼の手元に釘付けになっていた。
彼が握りしめている作戦指示書。
風でめくれたその紙面に、ミシェルの「監査アイ」が反応してしまったのだ。
「あの、陛下」
「……命乞いか。無駄だ」
「いえ、その兵站計画ですが」
ミシェルは指を差した。
「第三補給路を使うおつもりですか。昨日の雨で地盤が緩んでいます。馬車がスタックする確率が六割。到着が二日遅れます。兵糧が尽きますよ」
「……は?」
ギデオンが眉をひそめる。
「何故、貴様がこちらの補給路を知っている」
「来る途中の馬車から、車輪の跡と土の乾き具合を見ていました。ここを通るなら、迂回ルートのほうがコストを一五パーセント削減できます。あと、その装備だと北の峠で凍死者が出ます。現地の羊毛業者を事前に押さえておくべきでしたね」
早口でまくし立てる。
職業病だ。非効率な計画を見ると、口を出さずにはいられない。
周囲の騎士たちが息を呑む。
皇帝の作戦にケチをつけるなど、即座に処刑されても文句は言えない。
彼の目が、鋭く細められた。
彼はゆっくりとミシェルに近づき、その顎を指先で持ち上げた。
「……貴様、名は」
「ミシェルです。特技は事務処理とコストカット。趣味は睡眠です」
ミシェルは真っ直ぐに赤の瞳を見返した。
ギデオンの口元が、三日月のように歪む。
それは、獲物を見つけた猛獣の笑みだった。
「……面白い。無能と聞いていたが、とんだ拾い物をしたようだ」
彼はミシェルの手を取り、強引に引き寄せた。
「来るぞ、ミシェル。俺の執務室へ。積まれている書類の山を、貴様のその目で片付けてもらおうか」
「えっ」
ミシェルは固まった。
「あの、私は飾り物の妻として、王宮の奥で息を殺して寝ている予定なのですが」
「却下だ。今日から貴様は、俺の最側近だ。逃がさんぞ」
「……残業代は出ますか?」
「帝国全土をやる」
「契約成立です」
こうして、ミシェルは帝国へと連れ去られた。
その後、彼女が皇帝の右腕として、類まれなる事務処理能力で帝国を黄金時代へと導くのは、歴史が語るとおりである。
「冷血皇帝」と呼ばれたギデオンも、優秀すぎる妻には頭が上がらず、夜な夜な彼女に膝枕をねだっていたという噂もあるが、それはまた別の話。
◇
一方、ミシェルを追い出した祖国。
彼女がいなくなった翌月から、王宮は大混乱に陥っていた。
予算が合わない。
物資が届かない。
裏帳簿の隠蔽工作が露見し、大臣たちが次々と失脚。
国庫はあっという間に底をついた。
「な、なぜだ……っ。今までは何もしなくても上手く回っていたではないか!」
国王は頭を抱えて叫んだが、もう遅い。
彼らが「何もしなくていい」ように、全てを整えていたのは、あの「無能な第八王女」だったのだから。
失った歯車は、二度と戻らない。
遠い空の下、ミシェルは今日も温かい紅茶を飲みながら、定時退社の鐘を聞いていることだろう。




