■8 炎の物語 【物語の日、神話の午後/21】
「まさかとは思うが、あの呪文は……いかん、やはりそうだ! あれは共殺しだぞ!」
深刻さを極めた声でそう叫んだのは、左利きたちの後見人であるあの中年呪使いだった。
「おいおっさん! なんだ、その共殺しってのは!?」
「おお、おぬしは! ……いやいや、今はそれどころではないな」
左利きの相棒が声をかけると、中年呪使いの表情が再会の喜びに輝く。
が、それも一瞬のことだった。すぐに相棒のところまで寄ってくると、彼は重々しい口調で話しはじめた。
今から三十年ほど前、ある都に二人の呪使いがいた。二人は共に呪いの道を学んだ幼なじみだったが、しかし片方の優秀さにもう片方はいつもいま一歩劣っていた。
試問の点数、周囲からの評価、役職や雇用口の奪い合い……競っては負け競っては負けするたびに劣っていた片方は少しずつ狂い、恋愛の勝負に負けるに至ってとうとう大いに狂った。
「結局、おかしくなったそやつは自ら死を選ぶのだが、この男は自刃して果てるにあたって一つの新しい呪いを生み出した。自分の命と引き替えに、自分を負かし続けた憎きあいつをも道連れにせんと、そう神に祈ったのだ」
吾輩たち以上の年代の呪使いならばまず知らぬ者のおらぬ有名な話しだよ、中年呪使いはそう締めくくった。
「自分諸共憎き相手をと願う、だから共殺しの呪い。もちろん、そんな逆恨みは成就せんかったがな。たいそう後味の悪い思いはしたろうが、道連れにと願われた男も今ではそれなりの地位に上り詰めておるはずだ。結局、死んだ男は死んだ後にも残り続ける恥を晒しただけだったというわけだ。
……その男の場合に限っては……」
そこまで説明すると、中年呪使いはなにかから逃げるように面を伏せた。それ以上口にすれば自分の予感が的中してしまうというように、
皆まで言われる必要はなかった。左利きの相棒と、それになんだかんだでまだ彼と一緒に居た三人の魔法使いたちとが、それぞれ不安な視線を交わす。
確かにその男の死は無駄死にだった。生き恥ならぬ死に恥を晒しただけだった。
情けない負け犬の逆恨みの産物、共殺しの呪いとは、本来そうしたものでしかなかったはずだ。
だが左利きの魔法は、『すべての呪いに願われた通りの効果を与える』魔法なのだ。
それがどのような効果や成り立ちをもったものであるかに関わらず。
「……ちょっと、冗談じゃないわよ!」
踊り子が悲鳴じみた声で言った。
「あの呪使いが道連れにしようとしてる相手って、どう考えたってユカくんじゃない!」
寒さがあった。この炎天下に、凍えるような寒さがあった。
しかしその寒さは、気温に由来するものではなかった。
「……我が憎悪に慈悲を……徒死ぬ我に慰めを……」
「やめろ! その術は、あんまりにも危険だ!」
ユカが、呪いをやめさせようとして左利きに掴みかかった。
だが伸ばしたその手は、相手に届く前に弾かれてしまう。勢い余って尻餅をついたユカはその姿勢から左利きを見上げた。
壁が存在していたのだ。左利きを覆うようにして、目に見えぬ障壁がそこに現れていた。
すべてを拒絶する透明な壁は、まるで、いまの左利きの精神状態を象徴するかのようだった。
「……呪われよ……呪われよ……我に巣くいし憎悪よ、すべてを呪いつくせ……」
寒さが、また一段と深まった気がした。ユカは思わず身震いをする。
気温は変わっていない。空では依然として太陽が輝き、街に猛熱の真夏を供給し続けている。
肉体的な感度覚ではなく、それは六感に訴えかける寒さだった。
井戸よりも深い地底の底から湧き出してくる怨嗟。
人の歴史に存在したすべての悪意を凝集したかのような黒い思念。
憎しみというただ一つの意思に統一された、感情という感情。
極寒の不吉さ。
これはまずい、とユカは思う。
左利きが道連れにしようとしている相手はユカではないのかと、観衆の中ではいましも踊り子がそう叫んでいた。
だが、こうして相対しているユカにはわかった。事態はそんなに甘くはないのだと。
「みんな、逃げて! できるだけ急いで、はやくここから離れて!」
並み居る観衆たちに向かって、ユカは警告の声を張り上げた。
左利きの術の対象、それが自分だけだったならどれだけ気楽だったろうかとユカは思う。
しかし、もはや左利きには目の前のユカすら見えていなかった。彼の理性は完全に狂気に蝕まれている。
そしてその狂気の中で、左利きは世界をまるごと呪いつくそうとしていた。
左利きの憎悪の対象は、いまや彼自身をも含めたこの世のすべてへと拡大されていたのだ。
「呪われよ……呪われよ……呪いつくせ……」
なにも見ていない虚ろな瞳を開いて、左利きは壊れたように呪文を唱え続ける。
世界を呪い続ける。
とにかく、ただ座して見ているわけにはいかなかった。ユカは立ち上がると、すぐに本棚のところまで駆け戻った。
宿敵として、彼を止めるのは自分に与えられた役割であり義務なのだと、そう受け容れ。
語り部は譚る。
「説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう! これなるは――!」
「お、おい。あの野郎、なんか逃げろって言ってるぞ!?」
左利きの相棒が、色の魔法使いをはじめとした三人に言った。
「……どうやら、事態は最悪すら超えているようだな」
色の魔法使いが、苦虫を噛み潰したような顔となる。
「とにかく、手分けして観衆を避難させよう。しかしどうすればいい……どう言ったら素直に我々の言葉に耳を貸してくれる……しかもこの人数……」
「あら、それなら任せてもらえる?」
思案を巡らせる膚絵師にあっけらかんとそう言ったのは、骨の魔法使いだった。
彼女は手提げ袋から、小さな動物の頭骨を取り出した。
掌におさまる大きさのそれは横長の楕円形をしており、さらには頭部と一体化した嘴をもっていた。
森の母は小さな頭骨を撫でる。まるで生きている動物にそうしてやるような愛を込めて。
はたして、魔法はすぐさま形を取った。
真白き翼を持つ鴉が現れたと見るや、羽ばたいて骨の魔法使いの肩へと止まったのだ。
「……うん、すぐ来てくれるよう言って……そう、急いで。できるだけ早く」
彼女が言葉を伝えると、霊体の鴉はその場で一声「カアァ!」と鳴いて飛び立った。
「……あの、お母上。今のは?」
「ええ、念のために街の外で待機してもらってたから」
答えになっていない答えに困惑する色の魔法使いに、「それより、お母上はやめてって言ったでしょ?」と詰め寄る母。膚絵師の青年は緊迫した状況も忘れてたじたじになる。
さて、こうしたやりとりのうちにも彼女たちは到着する。
なにやら大勢の悲鳴があがったかと思えば、その方向から現れたのは三頭の猛獣たち。
それは、骨の魔法使いの妹である大山猫と、その母猫の子供たちである双子の子猫たちであった。
とはいえ、ユカが帰郷してからの半年あまりに子猫たちはすっかり成長し、今ではとてもじゃないが子猫と呼ぶのは相応しくない大きさになっていたのだが。
「急いでとは言ったけど神がかった速さだったわねぇ。それじゃ早速お願いなんだけど、ちょっとここにいる人たちを穏便に追っ払ってくれる? そ、穏便に。怪我させちゃだめよ?」
骨の魔法使いの命を受けて、猛獣たちが揃って咆哮をあげる。
続いて、山猫たちはそれでもまだ逃げ出さぬ人々に接近し、至近から大きく牙を剥いて脅しつけた。
言葉は一言も必要なかった。観衆の避難は、そのようにして速やかに完了した。
「まだ残ってる人にはそれだけの覚悟があるのでしょうから、無理に追うのはやめときましょう。……ふふ、いかがだったかしら?」
「……おみそれいたしました」
得意げに笑う骨の魔法使いに、色の魔法使いが唖然としながら脱帽を示した。
やはりユカのお母上だ。というか、俺たち全員の? 参ったな、なんて呼べばいいのかまだ決めてないぞ。
山猫たちの活躍により、広場からはほとんどすべての観衆が逃げ出していた。
残っているのはユカと左利きの関係者たちと、他には幾人かの呪使いたち、それにユカの信奉者となったあの楽師と歌い手と物語師の芸人三人組だけだった。
と、そのとき。
「……返して」
誰かが、色の魔法使いの袖を引いた。
「あたしの羊皮紙、返して!」
膚絵師の妻である踊り子が、上目遣いに夫を睨みつけていた。
「……ダメだ。返したら君はユカを助けに行くだろ」
「そうよ! それの何がいけないのよ!」
踊り子が、ほとんど喚くように言った。
「あたしが行ったって、なんにもできないかもしれない。だけど、だからってただここで見てろっていうの? ねぇ、あたしたちの弟が死ぬかもしれないのよ!?」
「ダメだ」
「なんで!? あの呪いがどういうものだかは聞いたでしょ!? ユカくんだけじゃなくて、あの呪使いだって死ぬのよ!? そしたら決闘もなにももうないじゃない!」
「それでもダメだ。……まだ、まだダメなんだ」
色の魔法使いの言葉に、踊り子が愕然とした様子となる。
「……まだ? まだって、なにがまだなのよ!?」
「……」
「信じられない! だったらいつなら良いっていうのよ!? いまがダメだったら、もう永遠にその『まだ』は来ないわよ! あなた、いったいどうしちゃったのよ!?」
「まだ彼女が堪えているからだ!」
色の魔法使いが声を荒げた。普段大声を出したりしない夫の一喝に踊り子が怯む。
それから、膚絵師は黙したまま、最前線で戦いを見守る一人の少女を指さした。
あっ、と踊り子が声をあげた。夫の言い分のすべてを彼女は理解したのだった。
色の魔法使いの指が指し示す先、そこにいたのは、素直すぎるほどひねくれた彼女たちの妹。
リエッキだった。
「……いま一番助けに入りたいのは、間違いなく彼女のはずだ。なのに、俺たちの妹はああしてその気持ちを抑えている。ユカを信じて堪えている。……だから、まだダメだ。この戦いに最初に割り込む権利を持つ者がいるとしたらそれは、彼女以外にはあり得ない」
噛みしめるように言った夫に、踊り子はそれ以上反論しなかった。
ユカと左利きの戦いを、リエッキは手に汗握って見守っていた。
本当はいますぐにでも助けに入りたかった。竜の姿に戻って、炎であの障壁を吹き飛ばしてやりたかった。それがダメなら、呪いの効果が届かない場所までユカを連れて逃げたかった。
しかし、彼女はそんな自分の思いを懸命に押し殺し続けている。
だって。
『助けが必要になった時は、誰よりも先に、神様よりも先に君を頼るよ!』
だってユカは、リエッキにそう約束してくれたのだから。
「……約束忘れたら、絶交だかんな」
戦うユカの背中に、リエッキは小さく呟いてみる。それからこれはまったくの無意識に、左右の手を祈る形に組み合わせた。
左利きの呪いが危険なものであることは、見ているだけで嫌と言うほど伝わってくる。
こうしているいまも、この世に存在してはいけない類いの霊気がふつふつと膚を粟立たせる。自分の中の獣の部分が、すぐにここから離れたいと悲鳴をあげている。あれが魔法の力であるならば、彼女の中の魔法の概念はひどく揺らがされることになる。
リエッキは左利きという人物を思う。あの数ヶ月の旅路の中で知った、彼という人間について考える。
思い出されるのは、なぜだか前向きな記憶ばかりだった。自由奔放な相棒を御しきれず頭を抱えていた彼。ユカを理解し、ユカに理解されていた彼。小競り合いを繰り返すうちに。互いに奇妙な親しみを感じるようになっていた、仏頂面の呪使い。
お互い苦労するな。そう自分に笑いかけた左利きのその笑顔を、リエッキは思い出す。
だがいま、そうした人間味のようなものは左利きには少しも残っていなかった。
虚ろな目でただ呪文を呟き続けるその様は機械を思わせる。
ただ憎み、呪うだけの悲しい機械。
あれはあの男じゃない、とリエッキは結論する。深すぎた絶望が、膨れあがった憎悪が、そしてそれらに育てられた狂気が、あの男の意識と肉体を支配し傀儡にしてしまったのだ。
できるなら止めてやりたい。止めてやってほしい。
……だけど、
――だけど、ユカ。約束は忘れるな。わたしはここにいるって、忘れないで。
「説話を司る神の忘れられた御名において、これなるは――!」
彼女のそうした思いも知らず、語り部の奮闘は続く。たった一人で奮闘し続けている。
本棚の百を超える魔法、ユカはそれを片っ端から左利きにぶつけていく。
だがそのどれをもってしても、左利きを守る障壁は破れなかった。
風の刃はなまくら刀同然に無力で、ならばと伸ばした蔦草は伸ばした端から真っ黒く腐って落ちた。
それに続く十の魔法も、さらに続けて放つ三十の魔法も、どれもこれも無力だった。
壁の頑丈さは、左利きの絶望と憎悪の深さを物語っているようだった。それにそもそも、ユカの魔法には攻撃や破壊に適したものは一つもなかったのだ。
もはや万策は尽きたかと見えた。
「ユカ……ユカ……」
リエッキは祈るようにユカの名前を呼ぶ。
わたしはここにいるぞと、声には出さずに何度も叫ぶ。
――たった一言でいい。たった一言あんたが頼ってくれたら、わたしは。
そのときだった。
そのとき、一瞬だけ、ユカがリエッキを見たのだ。
それから、彼は左右の手に持っていた本をその場で投げ出した。
そして。
「説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう!」
そして語り部は、魔法に必要な本を一冊も持たないままで譚り出したのだ。
譚られた物語とは、次のようなものだった。
「説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう! これなるは炎の物語! 一花の紅蓮と咲き誇る烈火! 一火の灼熱と燃え盛る業火! 万象なべて焼き尽くす、世界一の炎のお話だ!」
あらゆる現象を物語として語り出すユカ。しかし彼は、炎の魔法だけは使うことができなかった。
その理由について、ユカはこう言った。
『僕が炎を使える必要も理由もないよ。だって、僕の隣にはいつだって世界一の炎がいてくれるんだから』
――ユカが私を呼んだ。
本を手にせず叫ばれた物語が、ユカが自分を頼った合図だということをリエッキは理解した。
理解して、思考するよりも早く竜の姿へと戻っている。
突如として広場に現れた火竜は、現れたと同時に火弾を放つ。
巨大な火球は、左利きを守る障壁を見事に打ち砕く。
左利きが吹き飛ばされて、背中から地面に落下する。
杖は投げ出されていた。
共殺しの呪いは、成就寸前で無効になったのだ。




