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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 五章.物語の日、神話の午後

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■7 語り部の失言と呪使いの涙 【物語の日、神話の午後/20】

「説話を司る神の忘れられた御名において――!」

「偶数と奇数にかけて、天穹の星の無限にかけて――!」


 そして戦いは加速する。戦いは、加速度的に激しさを増していく。


 左利きの使うまじないは、時間の経過と共により剣呑な効果のものへと推移した。

 これに対抗するため、ユカの物語の運用もまた劇的に、峻烈に変わる。


 ずいぶん前からすでに、ユカは右と左の手に一冊ずつ手にして譚っていた。

 いいや、それだけではない。右の一冊の冒頭が譚られたかと思えば左の一冊の佳境へと繋がり、二つの物語に秘められた魔法が渾然となって発現する凄まじき刹那があった。

 さらには両手の二冊を共に投げ出して本棚に手をやり、立ち並ぶ背表紙を四冊五冊と鷲づかみにして物語の乱譚(らんたん)、魔法の五月雨さみだれ撃ちを演じてみせた。


 互いが互いの戦意を高め、闘争はさらなる闘争を煽ってそこには際限がない。


 そのようにして決闘は死闘の領域へと突入した。



 そこから先は、もはや(げん)()を用いた描写を可能とするものではなかった。


 まさに言語を絶する戦いであったのだ。


 たとえば氷雪の中を(ほとばし)る雷火があった。

 たとえば真昼の中で己を主張する小さな真夜中があった。

 互いの影同士が取っ組み合ういみじかしき暗闘があった。

 淀んだ沼気しょうき清廉せいれんな風が払い清め、しかしてその風を真っ黒な瘴気が陵辱する概念の食物連鎖があった。


 幻想が現実を圧倒し、かと思えば論理が空想を粉砕する。

 摂理と寓意とが真っ向から衝突し、目に見えぬ真理の火花を盛大に散らす。

 混沌と秩序が互いの尾を噛んで(かい)(てん)し、その内側でいくつもの矛盾が産声をあげる。


 神話の情景が現出する、まさしくこれこそが神話の午後だった。

 この午後は伝説となって(うた)われ、謳われ続けることにより新たな時代の神話となっていく。


 後の世に現れる魔術師という人種は、その大半が呪文という様式をひどく偏重することになる。そこにはこの日の戦いの様子が決定的に影響していた。

 物語の朗読と呪いの祈祷、共に朗唱の要素を含む二人の魔法の形式は、それぞれ後世において呪文詠唱の原型となる。

 それに魔術師たちの身につける術具、その最たる代表が杖と書物であることも、あるいはまた。





 そしてその瞬間は、ほとんど唐突に訪れた。


「……違う……違う違う違う違う、違う! ……違ぁぁぁう!」


 数えきれぬほどの攻防を重ねた果てに、左利きが叫んだのだ。


「……何度だって言う。私は、こんなことは望んでいなかったのだ。なのに、なのに……」


 途切れず続けられていた魔法の応酬はいま、ようやく休止を迎えた。

 戦場には凪の静寂が訪れて、その静寂の中で、左利きはユカに語りかけた。


「なぁ語り部、貴様との戦いは、楽しかったよ。これだけは私の本心だ。それこそ神に誓って――ああ、呪わしき神よ!――本心だ。貴様は私の痛みを理解し、理解したからこそここまで付き合ってくれたのだと、私はそのことをちゃんとわかっている。ああ、貴様は素晴らしい敵だ。なんとありがたき我が宿敵か。

 ……だが……だが……なぁ! 聞けよ、語り部!」


 ほとんど縋るような調子で左利きがユカを呼ぶ。

 彼は言った。


「貴様と術を比べるうちに、呪いを一つまた一つと試すごとに、私はいやというほど気づかされたよ! 私に備わったこの力が、紛れもなく本物だということにな!」


 絶望の響きも顕わな、血を吐くような吐露だった。


「教えてくれ……教えてくれよ語り部。私の……私の信念は、どこにいってしまったのだ? 私が今日まで大切にしてきたものたちは、いったい、どこに消えた?」


「消えてない!」


 左利きの言葉にかぶせるように、ユカの声が飛んだ。


「どこにも消えてなんかない! どこにもいってない! 君の信念はいまも君の胸にある! 君は、なんにも失ってなんかいないよ!」


 言葉の無力はわかっている。慰めもいたわりも激励げきれいも、意味なんてないのだと知っている。

 しかしそれでも、ユカにはもう言葉を抑えることができなかった。


「……なにが『素晴らしい敵』だよ。そんなのは、まるっきりこっちの台詞だ。君みたいな相手に宿敵と認められたそのことを、僕は満天下にでも自慢したい気持ちだ。

 君という敵は、この僕の誇りだ」


 ユカは左利きに言った。飾り気という飾り気と無縁な、どこまでも素朴な言葉と声で。

 沈黙の意味すらも含めた言葉の蘊奥(うんのう)を知り尽くした語り部は、このとき、そのすべてをどこかに忘れ去り、ただ個人的な衝動に任せて言葉を紡いでいた。


「……悲しいことを言うなよ、呪使い。君の信念は今も君の胸にある、そんなの、当たり前じゃないか。だってその信念は、君っていう男を今日まで支えて、導いて、形作ってきたものなんだろ? なら、簡単に見失ってやるなよ。かわいそうじゃないか」


 物語師として、言葉の名人として、自分は失格だとユカは思う。

 なにしろ感情に駆られて喋っているせいで、自分でもなにを言っているのかが半ばわからなくなっている。自分でも、自分が次になにを言うのかが半ば読めなくなっている。


 だが、そうした言葉だからこそ今の左利きには届いたらしい。

 呪使いの表情から、激情と憤怒の相が、少しずつではあるが薄れていく。


 しかし――。


「君以上の呪使いは過去にはいなかったはずだし、きっと、これから先も現れることはない。この僕が保証する。君は、間違いなく史上最高の呪使いだ。だから、だからこそ……」


 しかし、そうした状態であったからこそ、ユカは失言を口にしてしまう。

 それも、その生涯で最大の失言を。


「だからこそ、君は魔法使いになったんだ」


 左利きは呪使いの中の呪使いであり、史上最高の呪使いであり、だからこそ彼は魔法使いとして覚醒したのだ。文脈はそのような論理を照らしていた。

 ユカは呪使いである彼を肯定し、呪使いとしての彼を賞賛したのだ。

 平素の左利きであれば、そうした文脈をあやまたずに読み取っていただろう。


 だが。


「黙れ……黙れぇぇぇぇぇぇぇぇ!」


 だが、今の左利きはそうではなかった。論理の担い手たる彼の精神に、今、その論理を理解するだけの余裕は残されていなかった。


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ! そんな風に言うな! そんな、そんな風に私を呼ぶなぁぁぁぁ! 私を、私を魔法使いなどと呼ぶなぁぁぁぁぁぁ!」


 左利きの表情に兆しかけていた冷静さが、いっぺんに蒸発した。

 薄れかけていた怒りはさらなる怒りを持って塗り替えられ、さらなる憎悪が彼の面貌を黒く染め上げる。


「二度と、二度と私を魔法使いと呼ぶな! 私は、私は呪使いだぁぁぁぁ!」


 左利きは泣いていた。


 それから、彼は杖を振りかざす。

 泣きながら、この世のすべてを憎みながら、左利きは呪いにとりかかった。


 最後の呪いに。


「偶数と奇数にかけて、そして、人の身の儚き有限にかけて! 神よ、我が生涯最後の願いを聞き届けよ! 我が憎悪に慈悲を! 徒死(あだじ)ぬ我に慰めを! 我と我が死を代償に、どうかこの地獄を届けたまえ!」


 ただならない不吉さが、ユカの背筋を総毛立たせた。

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