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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 五章.物語の日、神話の午後

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◆17 善と悪の乱闘 【物語の日、神話の午後/8~10改稿】

「――説話を司る神の忘れられた御名においてはじめましょう。これなるは――」


 風が吹きはじめます。本棚から取り出した一冊を手にユカが譚りはじめたその刹那、それまでそよとも動かず淀んでいた熱暑に空気の流れが生じたのです。

 譚りながら、ユカは例の中年呪使いに、宿敵の後見役たるあの男に意味ありげな冷笑を浴びせます。

 ええ、そうです、そうなのです。ユカが最初に選んだのはあの夜の一冊。目の前の男を以前しこたま震え上がらせた、ほら、この魔法だったのです。


「――これなるは風の一節。草原を吹き抜ける大地の息吹。雲を切り裂く天空の猛威。夜と昼とを駆けめぐる、一陣の疾風(はやて)の物語!」


 譚り出された風が広場を走り抜けます。言葉は拍車となってまた糧となって、そよ風を突風へと加速させ、その突風をたちまち暴風へと育てます。

 ああ、風の力はそのまま言葉の力です。語り部の時間から魔法使いの時間へと局面は推移して、ユカの弁舌は先ほどまでとは異なる権能(ちから)を発揮しています。

 ご覧の通り、屋内が舞台であった前回と違って今回は開け放たれた空の下です。だから遠慮は一切無用とばかり、のっけのはじめから、ユカは最大出力で物語を駆動させます。


「み、み、見たか! 見たか人どもよ!」


 蘇る恐怖に小さく縮こまりながら、例の呪使いが聴衆たちに向かって叫びました。


「どうだ! わしのいった通りであったろう! こやつは本当に、本当に邪悪な魔法使いであっただろう!」


 それみたことかと勝ち誇る呪使いに、しかし人々の反応は冷淡なものでした。だからなんだと、それがどうしたと、そんなしらけた雰囲気がみんなの上に満ちています。

 無理からぬことです。魔法使いは邪悪な存在であると、そんな常識は子供ですらが当たり前に持っていたというのに、しかしこの時代、人々は魔法使いというものの実際についてはほとんど何一つ知らなったのです(これもまた皮肉の一つではあるのですが、風説の発信者である呪使いの悪意が徹底され過ぎていたこと、悪意の作り話を広めるばかりで真実はほとんどなにも語らなかったということが、ここに大きく影響していたのです)。


 知らないことについて、人というのは印象を頼りにして解釈と判断を加えるものです。そしてこの場において、魔法使いの印象は先だって完全にひっくり返されています。

 目の前で繰り広げられる展開を、『親が魔法使いならその息子が魔法使いでも当然だよな』と、群衆はこのようにすんなり受け入れておりました。ええ、ええ、なにしろ魔法使いの力が血による遺伝もなければ世襲もないということなど、まるっきり知らない人々なのです。

 それに、ユカがしっかり制御して風を操っていたこともありました。呪使いたちには容赦なく襲いかかる暴風は、しかし見物している人々にはまったく脅威として機能せず、むしろ暑気を吹き飛ばす涼風として歓迎されているような有り様。だから行使されている魔法(ああ、つい何時間か前まではみんなが邪悪な力と信じて畏れていた魔法!)についても、抱かせて当然と思われる悪感情は全然与えてはおりません。


 確かに、語り部は呪使いたちの望んでいた構図を彼らに提供しています。

 対立の構図を。呪使いと魔法使いの対立。善と悪の。

 だが……と、自問するのは呪使いの側です。

 だが、この場での善は、はたしてどちらなのだ。はたして、悪はどちらなのだ。


 反射的な自問に、応じる自答は絶望的です。


 呪使いたちの焦燥は(いや)が上にも募って、彼らを行動へと駆り立てます。さながら風の王となって譚り続けるユカに、幾人かが、杖を振りあげて殴りかかります。


 殴りかかろうとして……しかしその行動は阻まれます。


 群衆の列から飛び出した数名が、ユカを守るようにして呪使いたちの前に立ちはだかったのです。

 まず第一に加勢してくれたのは、いつの間にやらすっかりユカに心酔しきっている、あの語り部と歌い手と楽師の芸人三人組でした。最年長の語り部の「我らが大兄をお守りせよ!」との号令一下、三人はユカを背にして素人陣形を組みます。それから、ある者は握った拳を突き出して見様見真似の拳闘姿勢を取り、ある者は自慢の喉から怪鳥じみた威嚇の声を出し、そしてまたある者は、逆さに持った商売道具の楽器を剣豪のように青眼に構えます。

 急場結成の親衛隊は、これでもかと敵意を込めて呪使いたちを睨み付けます。


 さて、三人組の芸人衆を突き動かしたのは聖邪の判断やそれからくる義憤などではなく、純粋に彼らが大兄と呼び慕うユカへの崇拝心でございました。ですがしかし、彼らの行動によって、この場の風向きはいよいよ決定的なものと動いたのです。

 義憤に駆られた正義漢が一人、二人、三人、さらには男性のみならず女性も一人……総勢二十人近くが、人間の壁となってユカの前に立ちます。それに、そのとき前に出なかった大半の群衆もまた、思いは一つに共有しています。

 集団の心理が、物理的な人の壁よりも厚い層となってユカを守護します。

 集団心理。その恐ろしさを、呪使いたちはよくよく理解しています。なぜなら、これまでそれを利用して魔法使いを貶めてきたのは、他ならぬ彼らなのですから。

 呪使いたちは、再び塩を得た青菜と萎れかえってしまいました。


 ……と。


「え――あ、ちょ……た、大兄?」


 親衛隊の筆頭格たる芸人衆(余談ですが、さっきから畏敬もあらわに大兄、大兄とユカを呼んではいるこの三人組の年齢は、実のところ揃いも揃ってユカより十ほども上なのでした)が呼び止めるのに、ニッコリと笑み返して。せっかくの護衛の壁を、すいっと通り抜けて。

 ユカが、わざわざ呪使いたちの前へと進み出てしまったのです。


「皆様、御好意のほど、まことに痛み入ります」


 後ろを振り返って、自分を守るために立ってくれた人々にユカは語りかけました。


「ですが、お守り頂くには及びません。なにしろ、僕は百の物語に守護された語り部です。そして先ほどそちらの呪使い様が――それこそ鬼の首を取ったように――指摘してくださったように、百の魔法を操る魔法使いでもあります。だから、どうかお下がりください。下がって、見守っていてくださいな。魔法使いと呪使いの、対決の行方ってやつを」


 胸を叩いてそう言うと、ユカは再び反転して、今度は呪使いたちに相対します。


「さぁ、呪使い様たち。物語を続けましょうか。皆様のご所望であった物語を、魔法使いと呪使いの対立の物語(それ)を……ん? あれ? いかが致しましたか?」


 群衆の視線が矢となって降り注ぐ中、呪使いたちはやっぱり立ち尽くしています。


「いったい、どうしてしまったのですか? 人々を誑かして卑怯なりと、人間の壁に隠れて姑息なりと、そう言われる前に、僕はこうして出てきたではないですか? なのに、なぜそんな風に棒立ちになっているのです? 怯んだように、立ちつくしてしまっているのです?

 ……まさか、衆目が気になって手出しができないとでも言うのかな? みんなの見ている前で僕をこてんぱんにやっつけるなんて、あんまり悪者じみていて不可能とでも? ……ああ、これが正義の悲しさ! いやはや、邪悪な魔法使いであるらしい僕には縁のないしがらみだなあ!」


 猫が爪と肉球で鼠をなぶるように、語り部は言葉と態度で呪使いたちを弄びます。呪使いたちの置かれている立場を理解していて、わざとらしく彼らを挑発します。

 呪使いたちから、ほとんど殺意の領域に踏み込んだ憎悪が立ち上ります。


 さて、それから。


「よろしい、こうなれば大盤振る舞いだ。今日はどこまでも皆様のご都合にお付き合いすると致しましょう」


 語り部はそう言い置いて、手にしていた本を開きます。


「――説話を司る神の忘れられた御名において――」


 開かれているのは『一陣の疾風の物語』。さっきまで譚っていたこの一冊の、しかしさっきとは違うくだりを、これまたさっきとは違う語り口でユカは譚りはじめます。


「――風の獣は不可視の獣、母たる風と同様に我らの目には映らず、母たる風と同様に走るのがなにより好きな可愛い獣。しかし彼らは、その目に見えぬ愛らしさとは裏腹に目に見えぬ鎌をも持ち、実に鋭利なそれをときとして我らに振りかざします。

 振りかざすんだってば」


 すると、ああ、ほら! まるで訓練された犬が狩人の指事に従い獲物に襲いかかるように、目に見えぬ鎌持つ目に見えぬ獣が、語り部の譚りに従って呪使いたちに襲いかかります。


「ほうら振りかざす。振りかざす。振りかざすったら、振りかざす」


 猛烈ではあるもののただの突風でしかなかったさっきまでとは違って、今度の風は明白に刃を孕んでいます。

 刃、刃……そう、風の刃。

 譚り出される風の刃は何度も何度も(ひるがえ)っては呪使いたちに斬りつけて、彼らの纏う術衣(というのはつまり一目で呪使いと見てとれるあのお揃いの衣装でございます)に、いくつもの切れ目と裂け目を生み出します。

 ……逆に言ってしまえば呪使いたちの被った被害はそこまでで、肉体的な傷は血の一垂れ、爪の一欠けほどもなかったのですが、しかし彼らの周章狼狽ぶりは情けなさを極めてもはや哀れなほどでした。

 例の中年呪使いを筆頭にぎゃあぎゃあわあわあと叫んで喚いて、その悲鳴がさらなる悲鳴を助長するという悪循環。圏外から眺める観衆たちの目には、あたかも瓶詰めの狂騒と映って滑稽です。


 そうしてひとしきり呪使いたちを翻弄したあとで、ユカはぱたんと本を閉じて譚るのをやめます。

 すると風もまた同時にぴたっと止まって、呪使いたちの悲鳴もぴたっと止まります。


「ほら、どうです? 大義名分は、これで立ちましたか?」


 ユカが呪使いたちに言います。


「やらないとやられちゃう、って。この相手には多勢に無勢もやむなし、って。なに、悪たる僕からのほんの贈り物ですよ、これは。行動にいちいち言い訳が必要な正義の皆様へのね」


 ――だからほら、かかってらっしゃいな。


 そして挑発は覿面に効果を発揮します。

 そして呪使いたちが語り部に襲いかかります。次々に、次々に。


 敵の調子に乗せられているのだと、完全に語り部の掌の上で踊らされているのだと、そのことはすでに呪使いたちだってわかってはいたはずでした。

 ですが、それでも彼らは立ち向かわないわけにはいかなかったのです。

 あるいはこのとき、すでに彼らは物語に支配されていたのかもしれません。


 さぁ、大入り満員の観衆の面前、このようにして奇妙な殺陣ははじまったのです。

 手に手に捕り物道具を握った呪使いたちは刺股(さすまた)だとか突棒(とつぼう)だとかを突き出して、素手の者は徒手空拳を振りかざしたり、あるいは総身を礫にしての体当たりです。

 さてこれを受けて立つユカはといえば、寄せ手の攻撃を避けながら近くにいる観衆たちに対し「はいはい皆さん、危ないから出来るだけ後ろに下がってね」などと声をかけて回ります。例の芸人三人組が「た、大兄! 助太刀しますぜ!」と申し出たのにも「いいからいいから、まぁ見ててよ」と笑って受け答えて、受け答える間にもさらに二人をあしらうような余裕の様。


 もちろん、呪使いたちに対してはこうした態度もまた挑発として機能しました。


「かかれ! かかれ皆の衆! ……おい、なにをしておるのだ! 貴様らも動かぬか!」


 声を枯らして叫んでいた指導層の呪使いが、揃って棒立ちになっている若年の呪使いたちを発見してこれを怒鳴りつけました。

 するとどうでしょう。呆けたようになっていた若者たちは、雷鳴に打たれたかに我に返ります。

 ああ、なんとも悲しき習性がそこにはありました。つまり、命じられたら従うという。それに命令されることに慣れすぎた人間というのは、いつのまにか命令されることを望むようになっているものです。

 だから、つい今しがた自分たちの是非に疑問を抱かされたばかりだというのに、ほとんど反射的に若年層の彼らもまたこの殺陣に参加して参ります。捕り物道具や徒手空拳を振りかざして、思考停止したままでユカへと襲いかかります。


 こうして殺陣は乱闘と変化し、すぐさま大乱闘と相成ります。


 ここで、ユカは乱闘の開始からはじめて本棚に手をやりました。ほとんど無造作に引き抜いたように見えて、しかし取り(いだ)したるは狙い澄ました一冊です。


 さぁ、譚りますよ。


「――説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう! これなるはとある芸人のお話。見えない形を叩いて撫でて、見えないなにかをお見せする、さぁさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。静かなる達人、天下一の擬態芸人の物語だ!」


 擬態芸、あるいは黙劇芸と呼ばれるものをご存知でしょうか?

 大道芸の一種目でありまた舞台演劇においても重宝されているこれは、何もないはずの空間に様々なもの――たとえば扉や階段、それに、なんといっても壁です――が存在するかのように見せかける表現技法です。

 ユカがこの擬態芸の大名人と出会ったのは一年と少し前のこと。言葉はたったの一言も発さぬままで無いはずの物を観衆に見せる技の数々に、言葉の名人たるユカは大いに刺激を受けたものです。その日は終日感動の余韻を引きずり続けて、見様見真似のへたくそな芸をリエッキに披露しては鬱陶しがられて、ああそして、挙げ句の果てにこんなことを言いました。


 ――名人はあの瞬間、ほんとに壁を創り出してたのかもしれないなぁ。


 そのようにしてまた一冊分の重みがリエッキの背に加わった、というわけです。


 譚っているユカめがけて、いましも二人の呪使いが左右から、さらに一人が前方から、もひとつおまけに後方からも一人、襲いかかります。

 四方から殺到する呪使いたち。ですが、横手から突進してきた二人はユカの数歩手前で、ユカが『沈黙の名人芸の物語』の魔法により生み出した見えない壁に衝突して、ガガン! 揃ってひっくり返ってしまいました。

 後ろから来た一人もこれと同様の有様で、最後に正面から棒で殴りつけてきた一人は目に見えぬ壁をこれまた渾身の力でぶん殴って、折れ飛んだ棒の先端を鼻先に食らって空中に鼻血の弧を描きました。


 この結果に、観衆たちからは盛大な笑い声があがります。

 四人の同胞が無様に転がる様を目の当たりにして、呪使いたちの間に動揺が走りました。

 さてこの隙に、ユカは手にしていた本を本棚に戻して、またも別の一冊を取り出します。


「それじゃ、今度はこっちから行くよ」


 そう宣言するや、ユカは自分から呪使いたちへと走り出し、走りながら譚り出します。


「――説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう。お次のこれは一風変わった格闘家の物語。旅から旅の愛書家の、手にした得物は大した凶器。殴って殴ってまたぶん殴る、食らえ直角正義の威力!

 ほうら、本の角っこは痛いぞ!」


 向かってくる語り部に、呪使いたちも慌てて構えなおします。そうして、ええい飛んで火に入る夏の虫! とばかりに気合いを入れて応戦するのですが……

 ありゃなんとまあ! 呪使いたちの突き出した武器をユカが回避(かわ)して、回避したと同時に手にした本で叩けば、毎度おなじみの捕り物道具が、まるで枯れ枝かなにかのようにぶっ壊れてしまったではありませんか!


 読者よ、覚えておいででしょうか。

 数ヶ月前の、あの二人の呪使いたちと道行きを共にした日々の中で、ユカは左利きの相棒を本の角っこでぶん殴ってやっつけたことがありました。

 そのとき、ユカの脳裏には一つの滑稽譚が浮かび上がったのです。


 ――すなわち、「刃でも棒でもなく、本を武器にして戦う闘士の物語」が。


 まさに、いましもユカが手にして譚っている魔法こそがそれでした。表題はそのものずばり『本の角っこは凶器ってお話』(ああ、本当にそのまんま!)。

 ではこの魔法の効果はどんなものかと申せば、これもまた見ての通りのそのまんま。物語の主人公たる旅の愛書家のそれ同様、譚りながらユカの振り回す本は、剣や棍棒を上回る威力を具えた武器となるのです。

 本が横一文字に振るわれて、刺股が破壊されます。上から下へと振り下ろされて、今度は袖絡みがぶち折られます。さらにさらに、書物が一閃、二閃、三閃して、突棒がバラバラ!


 呪使いたちはぞっと縮み上がって、ユカはにっこりと笑いました。

 とってもいい笑顔で。


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