◆15 右手に誠意の矛を持ち、左手に良心の盾を構え、二つの眼はしっかと見開き前を向いて 【物語の日、神話の午後/6】
「だまれ!」
一歩。
「だまれ黙れ!」
二歩。
「黙れだまれ……だまれぇぇい!」
そして三歩。
語り部への罵りを口走りながら、凍り付いたようになっている呪使いの列より一人の呪使いが、一歩、二歩、三歩、進み出ます。
いかにも余裕をなくした前のめりな足取りで彼は進み出て、そして、あっさりと物語の支配する広場に足を踏み入れたのです。
遮る物など囲いの一つとして存在しない、ただ敷石の色のみで区別された広場の内と外。その境界線は先ほどまで、呪使いたちにとってはどうあっても越えることの出来ぬ絶対の水際でございました。
ですがこのとき、結界はすでに機能を停止していたのです。結界は、外側からではなくその内側から破られていたのです。
ユカが呪使いたちに語りかけた、その瞬間に。
ああ、そして。
言葉により呪使いたちを縛めより解きはなった語り部は、それと同時に彼らを疎外された立場から一転、己の譚り出す物語の中心へと引きずり込んでもおりました。
ここから先の展開を彩る、必要にして不可欠な登場人物として。
「な、な、なんだというのだ! なにが言いたいのだ貴様は!」
こちらを睨み付け裏返った声をあげるその男は、ユカにも見覚えのある人物でした。数ヶ月前ユカの目の前で彼の宿敵に殴り飛ばされ、また、ユカには知るよしもありませんが今ではその左利きの後見人となっている、それはあの夜の中年呪使いだったのです。
散々に脅しつけられた一夜の記憶がよみがえったものでしょうか。ユカと目があった瞬間、呪使いはたじろいだ様子を見せて小さく硬直いたしました。
ですが、それも一瞬のこと。すぐさま、彼は語り部への怖れをそれを上回る敵意で塗り替えて、そして、その気分を後押しするようにあと一歩だけ踏み出します。
そんな彼に続いて、彼よりも十ほども年配が勝っている――つまり、年功序列の原則が罷り通る呪使いの世界においては彼よりも位の高い、上位の指導層と思しき――老境の呪使いが二名、慌てて便乗するようにその後ろに続きます。
「おい、言いたいことがあるのだろう! え? ならばはっきりと言え、言ってみよ!」
恫喝というよりはほとんど己を鼓舞するように例の中年呪使いが大声を張ります。黙れと言ったばかりの口で言え、言ってみろとがなる己の矛盾にはいっかな気づいた様子もなく。
対するユカは黙したまま、ただ雄弁な眼差しだけを本棚の壇上から呪使いたちに投げかけます。
意図的な侮蔑を、戦略的な蔑みを瞳に込めて。
言葉を用いぬ挑発は、すぐさま覿面の効果を発揮します。
「その……その目をやめぬか! 高いところから見下すその目を、やめろ! やめろぉ!」
ほとんど舌まで吐きださん剣幕で呪使いは声を荒げます。
「じ、邪悪な語り部め! 本性を現した、邪悪な魔法使いめ!」
「邪悪? ……邪悪。……ふふ、ああ、またも邪悪!」
そこで、ようやくユカも言葉を発しました。
語り部の口元には、やはり笑みが浮かんでいます。ただしそれは、向けられた者の胸からたちまち警戒心を取り去るいつもの朗らかな笑顔、ではありません。
それは、相対する者の心に不安を植え付け、際限なく気掛かりを増大させる、本来の彼とはかけ離れた悪性の笑顔です。
邪悪と罵られた語り部は、相手のその言葉を証明するかのようににぃと口角を高くします。
「ああ、素晴らしい! 邪悪がなんなのか、邪悪がどういうものなのか、僕にはまるっきりわからないその正体について、呪使い様たちは実に深い理解をご所有であるとみえる!」
そうだ、でなければそうも邪悪邪悪と連呼できるわけがない!
そう言いきるや、ユカは派手に声をあげて笑いだします。
からから、けたけたと、笑われる者たちにとっては悪意以外の何物でもない攻撃的な笑い声をあげて、大笑いに笑います。
「黙れ黙れ黙れ、だまれい! 笑うのをやめろ! 嘲るのをやめろ!」
呪使いが引きつった叫びで制止します。震える指先でユカを指さして、彼は続けました。
「貴様の……貴様の魂胆は知れておるぞ! わかっておるのだぞ!」
「はて、僕の魂胆?」
と、笑いが収まります。
大笑するのはひとまず止めて、しかし口元にだけはしっかりとにやにや笑いを維持したまま、ユカは呪使いを見据えます。
「素晴らしいなぁ、実に素晴らしいや。あなた方は僕の知らないことを本当にたくさんご存知なんだ。僕の知らない僕の魂胆……いやまったく興味深いや。是非ともお聞かせ願いたい」
「し、し、しらばっくれるな!」
と呪使い。
「魂胆などないとでも言いたいのか? 目論見などないと……とぼけるでない! 貴様の考えは貴様の行動が如実に、如実に示しておるわ!」
「ですから、それはどのような?」
「とぼけるなと言っておろうが! 無知な群衆を誑かし、扇動し、そうして我々呪使いを打倒しようというのが貴様の魂胆であろうが! 我らに対する人々の反感を煽り、貴様は!」
違うか? 違うとでもいうか? いいや、違うまい!
そう火の剣幕で言い募る呪使いを、ユカはしばし口元の笑みすら消し去って、ただ何も言わずに冷淡に見つめています。
それから急に、先ほどにも勝る大声をあげて笑いはじめます。
本棚から転げ落ちてしまいそうなほどに身をよじって、腹を抱えて、哄笑の限りに語り部は哄笑します。
「打倒する? 僕が呪使い様たちを、打倒する。……だ・と・う・す・る!」
ひぃ、ひぃ、ひぃと笑いながらユカは言いました。
「……何がおかしいのだ!」と、そう問うたのは例の中年ではなく、彼の後ろに控えていた老呪使いの片方でした。
威厳を取り繕うように重々しい口調を作って言った老人に対して、ユカは笑い声をさらに大きくします。
「いえ、いえ。ただひたすらに感心しているのですよ。なんとも自意識過剰で傲慢で、卑屈なまでに傲慢で――素晴らしい! それでこそあなたたちはあなたたちだ、呪使い様方!」
そう言ってユカはまた笑います。大袈裟に、相手の神経を逆撫でする笑い方で笑います。
それから、彼は不意に笑うのをやめて、蔑みの中の蔑みを一言に込めて、いとも冷淡な口調で結論を突きつけたのでした。
「……あなたたちを打倒する必要なんて、いったいどこにあるというのですか?」
だとうする、という部分が、嘲りを込めて強調されていました。
どういう意味だ、なにが言いたいのだ、はっきりと言え――そう甲走りながら、あの夜の呪使いがさらに前へと進み出ます。
すっかりこの場の呪使いを代表する立場となっている彼に二人の老人たちが追従し、後方の列からも十名ほどが飛び出してその後ろにつきます。
――そのときでした。
ユカへと近づこうとする呪使いたちを避けて、立錐の余地もなく密集していた聴衆の列が二つに割れたのです。
海が割れるように遠のいた群衆のその反応はしかし、権威ある呪使い様に道を譲ったというよりも、悪しき毒気の塊から逃げたというほうが相応しいものでした。
人々の意思の表れであるかのような反応。
このささやかな広場が代表する、けれど、けしてこの場だけに限定されてはいない意思の。
「必要なんてないんですよ。あなたたちを打倒する必要も、ついでに、僕が『はっきり言ってやる』必要もね」
愕然とする呪使いの一団に、これが答えなのです、とユカは言いました。僕なんかの一言よりも、この状況はずっと雄弁ではないですか、と。
けれど、その先はあえて言葉にはしません。
僕なんかが打倒するまでもなく、あなたたちには未来などないのだ、とは。
「ち、違う! これはすべて貴様が――!」
「僕が扇動したからだ、と? 僕が誑かしたからなのだ、と? ……とんでもない」
呪使いの一人が引きつった声をあげたのを遮って、吐き捨てるように語り部は言いました。
「あなた方が『無知な群衆』と見下している人々が本当は無知ではないということを、少なくともこの僕は知っています。僕がなにをするまでもなく、ここにいる人々はいつか霧から抜け出したでしょう。そしてこの場にいないすべての人々も、いつかは同じように迷妄を脱するでしょう。僕はただ少しだけその後押しをしたに過ぎないのです。
誑かし、扇動する……本当にそうした不埒を企む者は、群衆とは容易に誑かせ扇動できるものであると、なにかの成功体験からそう信じ込んでいる一握りの者だけではありませんか?」
群衆は割れて、いまや語り部と呪使いたちを結ぶ線を遮る者は一人もおりません。
ユカは本棚を蹴ってひらりと飛び、ほとんど姿勢を崩すこともなく身軽に着地します。
相手と同じ高さに立って、相手と同じ目線となって、ユカはさらに続けました。
「誑かすとは、言葉で狂わせるということ。人心を狂わせる言葉の毒。霧となって世に満ち、瘴気となって世を蝕む毒。そうした毒を吐く怪物がいたならば、いかにもこれは恐ろしい。
ですが、人々はいつか必ず怪物に打ち勝ちますよ。右手に誠意の矛を持ち、左手に良心の盾を構え、そして、二つの眼はしっかと見開き前を向き……
いいですか、打ち勝つべきなにかに打ち勝つのは、そうした一人一人の主体的な正しさ、ひいてはその集積であるところの聡明なる群衆なのです。少なくとも一介の語り部などではありません。断じて。
――さて」
呪使いたちのすぐ目の前まで、自分から歩み寄って。
ユカは、最後の部分を口にしたのでした。
「さて、最初の質問に戻りましょう。
ねぇ、呪使い様たち。毒吐く怪物とは、いったいどこにいるのでしょうね?」




