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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 四章 かくれんぼでは鬼のことを

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■13 奇数と偶数にかけて、天穹の星の無限にかけて(3)

 かくして物語は放たれた。

 閉め切られた室内に、どこからともなく風が立った。はじめこそ気付くか気付かぬかのそよ風だったそれは、すぐに誰にも感じ取れる気流へと成長した。


 そして、たちまちのうちに密室の嵐となって吹き荒れはじめた。


「春風、夏風、秋の風。暑さの風に寒さの風。逆巻く旋風つむじ大暴風あからしま。風情という言葉の示す通り、風は様々に趣を変えながら大地を駆け、千差万別に吹き荒びます。さながら一個の生命のように。

 さながら? いいえ、ここにさながらは不要でございましょうか。なぜなら風は、まさしく生き物に他ならないのですから」


 譚り出された疾風が、混乱を新たな混乱で塗り替えていく。

 外からではなく内からの風に建物が軋みをあげる。床に落ちた酒杯が割れて使い物にならなくなる、その不吉な音響がこだまのようにいくつも折り重なった。


 風は人と物とのあわいを縫って店内を縦横無尽に駆けめぐる。

 その様はまるで、目に見えぬ獣が逃げ場を求めて暴れ狂っているかのようだった。


 場末の情緒は蹂躙されて酒場は滅茶苦茶な有様。人々は周章狼狽しゅうしょうろうばいの極み。

 そんな中でただ一人、語り部だけが涼しい顔をして譚り続けている。


「馳せて、馳せて、また馳せて。風は止まらず馳せる生き物です。馳せ続ける限りは生きて、生き続けて、そして、稀には獣の精をその身に宿し、風と獣の合いの子を産み落とすのです」


 語り部は、ユカは、そこで視線をひたとあの中年呪使いに据えた。

 円卓の脚に縋って縮こまっていた呪使いが、怖じけたように身を竦ませる。

 彼を見るユカの目が、すっと細くなる。


「風の獣は不可視の獣、母たる風と同様に我らの目には映らず、母たる風と同様に走るのがなにより好きな可愛い獣です。しかし、彼らはその目に見えぬ愛らしさとは裏腹に目に見えぬ鎌を持ち、実に鋭利なそれをときとして我らに振りかざすのです。

 ――そう、こんな風に」


 ユカは片手を持ち上げて呪使いを指差した。

 無秩序に吹き荒れていた風が語り部の周囲に集まり、直後、主の命を受けた猟犬がそうするように呪使いへと殺到した。

 呪使いの左腕を保護していた革手甲が、音もなく裂けた。その下の冬物の術衣も、さらにその下に重ね着されていた肌着も、まったく同じ大きさの裂け目を覗かせている。

 そしてそれら衣服の一番下に隠されていた腕には、うっすらと一文字に血が滲んでいた。


 呪使いが、腕を切り落とされたかのような大袈裟な悲鳴をあげた。


「僕のことを知ってたみたいだけど、いかんせん情報が中途半端だったね、呪使いさん」


 ユカが言った。開いていた本が閉じられる、そのぱたんという音が奇妙に際立った。


「魔法使いの物語を譚る語り部、確かに僕のことだ。けど、その語り部自身もまた魔法使いだって噂は聞いたことがなかったかな? 近頃はなにか有り難い二つ名まで頂いてるようだけど」

「ほ、ほ、ほんのまほうつかい……っ!」


 悲鳴と嗚咽の隙間から絞り出すように言った呪使いに満足そうに肯き返しながら、「いかにも」とユカは応じた。

 それから、彼は口角を吊り上げて、にたっと笑う。


 いつもの自然な無邪気さとは対極にある、不気味で、獰悪どうあくですらある笑顔で。

 それは、呪使いたちが語る『邪悪な魔法使い』を体現したかのような笑みだった。


 ユカは呪使いに一歩だけ詰め寄る。

 最大限に効果的な一歩だった。あれほど喧しかった悲鳴がぴたりと止んだ。

 それまでの恐怖を上回る恐怖が呪使いののど頸を締め上げたのだった。


「そう、そこまでご存知なら話ははやい。なら、もう一つだけ教えてあげるよ。いい? 語り部たる本の魔法使いが最も嫌うのはね、物語の途中でくだらない横槍を入れられることなんだ。それも物語が最高潮に達しつつあるここぞという瞬間で台無しにされたともなれば、これはもう、あなたを三度八つ裂きにしても気分は晴れない。

 ……そこの二人は――」


 言いながら、ユカは左利きとその相棒を手振りで示した。呪使いが二人を振り仰ぐ。


「そこの二人はここ何ヶ月かしつこく僕につきまとってたからね、物語を邪魔された僕がどれほど残忍になるか、ようく知ってたのさ。だからこそ下手なお芝居を打って、序列で及ばないあなたを殴りつけてまで、僕の怒りをあなたから逸らせようとしたんだ」


 あなたはそこの二人に感謝するべきだろうね、とユカは続けた。

 中年呪使いの瞳から若い二人に対する敵意が蒸発するのがわかった。

 左利きの相棒が狐につままれた顔をしてユカと呪使いを交互に見た。

 左利きは唇を薄く開いたまま、大きく目を瞠ってユカを凝視していた。


 呪使いを真っ直ぐに見据えたまま、脅しつけるようにユカは笑いを深めた。

 しかしそのあとで、ほとんど唐突に笑顔と、それを用いて表現していたすべてを打ち切る。


「なんだかバカバカしくなっちゃったなぁ」


 ユカは言い、いかにも興が冷めたというように頭を一振りした。


「まぁいいや。普段なら絶対生かして帰さないんだけど、今夜はそこの二人に免じて見逃すことにするよ。さぁほら、僕の気が変わらないうちに、さっさと行った行った」


 彼は虫でも追っ払うようにしっしっと手を振った。

 呪使いはしばし呆けたような顔をして留まっていたが、「行かないならそれでもいいよ」とユカが再び本を開いて見せると、今度こそ這々の体で逃げ去っていった。


 混迷を極めたその夜の顛末てんまつの、これがその幕引きだった。


 ことの発端である呪使いが消えたあとで、ユカはゆっくりと客たちと店の人間を見渡した。

 彼らの反応は様々だったが、しかし方向性だけは一致していた。

 語り部の――魔法使いの視線が触れた者から順番に、顔を逸らし、あるいは身を竦め、小さく悲鳴をあげた者すらあった。好意的な反応とは、絶対に言えない。


 人々の反応にユカはどこか寂しそうな笑顔で応じた。

 それから、彼は懐から取り出した路銀を銭入れごと店主に渡して、一言「ごめんなさい」とだけ言った。


 リエッキは手早く荷物をまとめて本棚を背負った。

 問いただしてやりたいことは山ほどあったが、とにかく、今は一秒でもはやく親友をこの場所から連れ出したかった。


 揃って店を出たあとで、最初に口を利いたのはユカの方だった。


「これでまた演技の引き出しが増えちゃったかな?」と彼は言った。

 努めて陽気に、努めているのが明白にわかる陽気さで。

 リエッキはただ一言、「ばーか」とだけ言った。


 寝静まる街を歩きながら、結局、その後も会話は途切れたままだった。

 親友が何も言わなかったので、彼女も何も言わなかった。

 必要な空白だった。こういう夜は今までにもなかったわけではない。それに、沈黙に気まずさを覚えるような間柄でもなかった。


 沈黙を破ったのは、二人のどちらでもなかった。


「おい! 語り部!」


 背後から呼びかける声に、リエッキとユカはまったく同時に振り返った。

 左利きだった。隣には彼の相棒もいた。


「貴様! さっきのはいったいどういうつもりだ!」


 慌てて追いかけてきたのだろう、荒い吐息が冷え切った夜に白く立ち上っていた。

 しかし息を整える間も惜しんで、左利きはさらに叫んだ。


「下手な芝居を打って、だと? ふざけるなよ! 芝居を打ったのは貴様のほうではないか! 貴様こそ邪悪な魔法使いを、我ら呪使いの卑屈な空想の産物でしかないそれを演じて……おい! 貴様は、そうまでしてなぜ私たちを救ったのだ!」


 怒鳴り声が夜に響いた。

 常ならば誰よりも怜悧冷静であるはずの青年が、いまは時を弁えることすら忘れていた。

 左利きは本気で怒っているのだった。


「別に、君たちを助けたわけじゃない。僕はただ自分がやりたいようにやっただけ――」

「とぼけるのも大概にしろ!」


 左利きがぴしゃりと遮った。


「なにがやりたいようにやった、だ! おい、あまりみくびるなよ! あれが貴様の目指しているなにかの妨げにしかならんことを、ああした振る舞いを貴様が好まぬということを、私が見抜けていないとでも思うのか?」


 純粋な怒りを全身から放つ左利きを、リエッキは呆気にとられた思いで見つめていた。


 本人に自覚はまったくないのだろうが、しかしいま左利きが口にしたのは、ユカに対する理解の表明に他ならないのだ。

 親友の宿敵であるこの男は、わたしとは異なる立ち位置から、わたしにも劣らぬほどしっかりとあいつを理解している。

 そしてそれは、きっとユカのほうも同じなのだろう。


 この男を嫌うべきなのか好くべきなのか、彼女はいよいよ本当にわからなくなった。


「それならこっちだって言わせてもらうけど、先に僕を助けたのは君のほうだぞ?」

「別に貴様を救おうとしたわけじゃ……いや、なんだかこれでは山彦返しのようだが……ともかく結果がどうであろうと、私に貴様を救うつもりなどなかったのだ! 第一、貴様はあの程度は涼しく切り抜けてしまう男だ。あのとき、私はただ……!」


 そこで、左利きは突然言葉を詰まらせた。

 今夜の痛みが彼の中に蘇ったようだった。怒りと悲しみと、それにままならぬ無力感、それらが渾然となった暗い光が瞳に灯っていた。

 身内の醜態を羞じるような、そんな痛切な表情で左利きは足元に視線を落とした。


「君は……」


 少しのあとで、ユカが口を開いた。

 どこかにいたわりをひそませた声音。しかし同時に、そのいたわりが相手を侮辱することになると知っていて、だからこそ慚愧ざんきに堪えないというような……そうした矛盾と複雑を目一杯に孕んだ声音だった。


 短い逡巡の間があった。

 そのあとで、ユカは意を決して先を続けた。


「……君みたいな男が、どうして呪使いなんてやってるんだ?」


 瞬間、視線が跳んだ。地面に落ちていた左利きの双眸が跳ね上がった。

 凄まじい瞳だった。凄まじいとしか表現しようのない目で左利きはユカを見ていた。


「……貴様が言うか。魔法使いの貴様が、与えられた貴様が、我ら呪使いを侮るのか」

「侮ったわけじゃない」


 ユカは応じた。


「だけど、撤回もしない」

「撤回など求めるものか!」


 左利きが怒鳴った。

 ユカにぶつける左利きの眼差しは、物理的な圧すら感じさせて、強い。

 しかし、ユカもまた決して目を逸らさず、真っ直ぐに視線で視線を受け止める。


 魔法使いと呪使い。能力の差は歴然としていながら、二人の青年は完全に対等だった。


「撤回など、させるものか! 撤回など――ああそうとも、貴様の言わんとしていることは正しいのだ! 我ら呪使いは、いまでは弁明の余地もなく唾棄すべき存在と成り果てた。権威を振りかざして、権威にしがみついて、昨今では尊敬よりも軽蔑のほうをより多く集めている有様だ。だから、必死に守ろうとしているその権威も順調に衰えて、このままでは我らに未来などない。……ああ、わかっているとも! この私はそれを、誰よりもよくわかっている!」

「だったら、どうして君は……」

「私が変えるからだ!」


 それまでよりも一段と鋭く左利きは叫んだ。


「私が変えてみせる! 腐った体質に、腐った呪使い(われわれ)に、この私が変革をもたらす! それにより我々は今あるなにかを失うかもしれない! 権威も権力もなくして、社会の最下層に零落するかもしれない! だが、それにより我々はなにかを取り戻すことが出来るはずだ! だから私は、たとえこの先何年かかろうともそれを実現する!」


 そうだ、人生を賭してでも私はそれを成し遂げてみせる!

 最後にそう締めくくって、左利きは天を仰いだ。

 リエッキが隣を見遣ると、ユカは、打たれたような顔をして左利きを見つめていた。

 親友の瞳には、宿敵である男への抑えきれぬ敬意がはっきりと浮かび上がっていた。


「……僕らはもう行くよ。今日は、色々ありすぎてちょっと疲れた」


 ややあってからそれだけ言うと、ユカは相手の反応を待つことなくさっさと歩きはじめた。リエッキも黙ってあとに従った。

 誰もなにも言わないまま、今夜はここでおひらきとなった。


「ところで、一応答えておくよ」


 最後に、ユカは振り向きもせずに言った。


「やりたいようにやったっていうのは嘘じゃないよ。今夜の僕にはね、目標や理想なんかよりもずっと優先したいことがあったんだ。それじゃ、おやすみ」


 左利きはやはりなにも答えなかった。黙したまま、彼はなおも天穹てんきゅうを見つめ続けていた。

 冬の夜空には、地上にはない無限が燦然さんぜんと瞬いていた。

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