■12 奇数と偶数にかけて、天穹の星の無限にかけて(2)
「貴様のような者が……貴様のような者がいるから我ら呪使いは――ッ!」
肩で息をしながら、暴力を行った若き呪使いは、拳をほどくことも忘れて年長の同胞に視線をぶつけている。
蛇か蠍を見るような憎悪の視線であった。
それら蛇蝎を焼き尽くさんとする、火の視線であった。
なにが起こっているのか、まるっきり理解が及ばなかった。
状況を少しも飲み込むことが出来ぬまま、リエッキはただただ瞠目して目の前の場面に釘付けとなっている。
なんであの男が出てくるんだ?
そして、なんでお仲間じゃなくてユカに荷担するような真似をしてるんだ?
疑問符が脳裏に渦巻いていた。
同時に、左利きが呪使いに助勢するという懸念を念頭にも置いていなかった自分にリエッキは気付く。
これが彼以外の呪使いであればここぞとばかりに先達に助太刀していたのだろうが、しかしあの男だけはそうした振る舞いを決して好まないだろうと、彼女は何故だか頭からそう信じ込んでいた。そしてそれは間違ってはいなかった。
しかし、だからといって彼がユカを救うような行動に出たのは、これはまったく想定の埒外だ。
お手並み拝見とばかりに冷笑を浮かべてなりゆきを見守っている、そのあたりが最もあの男らしいという気がした。
リエッキは考える。
ユカの人柄はとうとう宿敵まで味方にしてしまったのだろうか。
そして、ほとんど間を置かずに己の発想を笑い飛ばす。
はん、まさか。
「若造……若造ぉッ! 貴様、己がなにをしたかわかっておろうなぁ?!」
ようやく立ち上がった呪使いが引きつった怒鳴り声をあげた。わなわなと震える指先が暴挙を働いた後進に突きつけられていた。
しかし、声音に飽和する激情にも、怒りに尖った指先にも、左利きはいっかな怯んだ様子を見せなかった。
「わかっているかだと? ならば逆に問うが、貴様こそ……おい老害! 貴様こそわかっているのか! 己の行動の意味と、それがもたらす結果について!」
激情に激情で応じるかのように左利きも声を荒げた。聞いた者を無条件に竦み上がらせるような気迫がこもった声を。
呪使いが、気圧されたようにわずかに目線を泳がせた。
「わ、わかるもわからぬも、己のことが明白でない者がどこにあるか! 良いか、我輩は不埒な語り部を糾弾し、不正に、また不遜に貶められんとしている我々の地位を……!」
「誰がそんなことを聞いた! やはりだ、やはり貴様はなに一つわかってはいない!」
相手の言葉を打ち消して、左利きが再び吼えた。
中年の呪使いが、今度は誰の目にもわかるほどはっきりとたじろいだ。
殴りつけ、怒鳴りつけた相手の不甲斐ない様を目の当たりにしながら、しかし左利きに優位を楽しんでいるような風情は皆目見受けられなかった。
代わりに彼の横顔に色濃く兆しているのは、ままならぬ苦渋と怒り、悔しさや悲しみが混然となったなにか。
少なくとも、それは愉楽からは遙かに遠い感情だ。
リエッキが理解を得たのは、まさにこのときだった。
「見てみろ! 酔いどれどもの白けた顔を、貴様の連れてきた保安吏たちの瞳にある軽蔑を! わかるか? 貴様が疑問も持たずに行ったことの、これがその結果だ!」
拳を振りかざして左利きは力説した。
慣れない暴力にすりむけた拳面が、相手のものではない血に濡れていた。しかし左利きはその傷を少しも気にかけていない。
いや、痛みに気付いてすらいないのかもしれなかった。
肉体の痛みを凌駕する痛みが、いましも彼の胸を刺し貫いているのだ。
リエッキはすべてを理解していた。
左利きはユカを救ったわけではない。この男を突き動かしたのはユカへの執着ではなく、ましてや旅路の上で培われた曖昧な親しみなどではけしてない。
もっとずっと、ずっと深奥にあるもの。彼という人格の核を成すなにか。
それこそが、冷静な精神と並はずれた意思を持つこの青年に短絡を起こさせたものの正体なのだ。
「貴様らは、いや、我々はいつもこうだ! 我々呪使いはいつも己の内で完結して、思考停止して! 既得のものが当然であると、永遠であると信じて……なにが『不遜に貶められんとしている』だ! 我々を貶めているのは、他ならぬ我々自身ではないか!」
左利きは叫び続けた。
その場に居合わせた誰もが言葉を失うほどの弁舌を振るいながら、しかしリエッキの瞳に映る彼は、今にも泣き出しそうな顔をしているように見えた。
「なぜその無様から目を逸らす! なぜその醜悪に気付かない! 老人どもは導くことを忘れて己の席を守ることに必死で、若年はただ従うことに必死だ! 誰も、誰も省みない! このままでは到底、我々の行き着く先には未来などあろうはずも――!」
「だ、だ、黙らんかこの慮外者が!」
それまで相手の勢いに呑まれていた呪使いが、我を取り戻したように怒鳴り返した。
「黙って聞いておれば若造、図に乗って大それたことを言い出したな! 貴様が今言ったそれは、呪使いたる者が従うべき杖の礼則を完全に足蹴にしておるぞ! 吾輩への無礼などもはや問題でない! 貴様は吾輩など及びもつかぬ高杖をも批判したのだ!」
おお、おお、なんとおそれおおいことを!
芝居がかった仕草と大仰な口ぶりで言った呪使いを、心底からの侮蔑を込めて左利きは睨みつけた。
しかし同時に、その瞳には諦観と無力感が揺れていた。
醜さが、すべてを捧げると決めた道の度しがたい醜悪さが彼を打ちのめしていた。
「おい、なにをぼんやりしとるか! さっさとこの若造を引っ立てんか!」
なりゆきを見守っていた保安吏たちに呪使いが命じた。当初の目的であった語り部の存在など完全に忘れ去っているようだった。
命じられた保安吏たちは、ひどく戸惑った様子で仲間同士顔を見合わせた。
命令に従うか否か判じかねているのだろう。
呪使い同士の諍いというもの自体が稀だったし、若い呪使いが年長者を殴りつけ面罵したともなれば、これはとんでもない異常事態だ。
呪使いの社会において杖の序列は絶対であり、目下の者は目上の者に疑問を抱くことすら許されない。
そして通常、呪使いは年齢に比例して位が高くなる。
彼らを駆り出した呪使いと、それを殴りつけたこの若い呪使い、どちらがより高い位階にあるのかは確かめるまでもなかった。
しかし、そうであるにも拘らず彼らは迷っていた。
無理からぬことだった。
どちらが年上であるかと同じくらいに、二人の呪使いのどちらが人間として格上であるか、それははっきりしていた。
そうした無言の膠着を打ち破るように、また一人状況に飛び込んだ者があった。
「おうおうおう! ぼんくら保安吏どもが! てめぇらなにを迷ってやがんだよ!」
左利きの相棒だった。
彼は唾が飛ぶほどの激しさで保安吏たちに言った。
「どっちが偉いかなんて一目でわかんだろ! ならどうすりゃいいか、わかんだろ!」
いつも通りの騒々しさで彼は怒鳴り散らした。
三人目の呪使いの登場でようやく保安吏たちの天秤は定まったらしかった。表情のどこかに不満を残しながら、彼らはゆっくりと左利きを取り囲んだ。
左利きは諦めた表情となり、無言のまま従う意思を示した。
そのとき。
「バッキャロウ! てめぇらコラ、そうじゃねえだろうが!」
もう一度、騒々しい怒鳴り声が保安吏たちに飛んだ。
「わっかってねえ! てめぇらにはこっちよりそっちのほうが偉いように見えんのか?」
左利きと中年の呪使いを順番に指さして、年上の相棒は言った。そして続けた。
「誰がどう見たってこっちの旦那のほうがそのジジイより偉いだろうが! ならもうてめぇらの出番なんざとっくにねぇんだよ! さっさと帰ってクソして寝ちまえ!」
対立していた二人の呪使いが、揃って驚愕の視線をこの介入者に向けた。
しかし、驚愕の度合いは左利きのほうがずっと大きかった。
彼は二つの瞳をほとんど真円に見開いていた。
「よ、よ、横からしゃしゃり出てきおって、なんなのだ貴様は!」
「うるせえテメェがなんだこの野郎!」
「わかっておるのか! 貴様ら若造が揃いも揃って……おい、杖位を言わんか杖位を!」
「杖位がなんだ、こっちゃ二人だぞ二人! おい、一足す一はいくつだ? 言ってみろやテメェコノヤロォ!」
「貴様ァァァ!」
「あんだコンニャラァァアァ!」
いよいよ事態は混迷と混乱を共に極めつつあった。
引きつった声で怒鳴り続ける中年呪使いと、巻き舌の罵声で応じる左利きの相棒。
両者が呪使いであるということを忘れてしまいそうな光景だった。
当事者であるはずの左利きは完全に置き去りにされて、しかし立場上目を離すわけにもいかないというような微妙な顔付きで罵声の応酬を見守っている。
保安吏たちは少し遠ざかった場所に集合しなおして密談を交わしている。
酔客たちの反応は様々で、無言のまま見物している者もあれば近場の客同士でひそひそと考えを交換している者たちもあり、さらにはこの状況について何事か賭け事が開始されているらしい一画もあった。
店主は顰め面で頭を振り、まだ娘といえる歳の女給は台帳を手に抜け目なく各円卓をまわっている。
騒然の巷から一転混沌の巷となった店内を見渡しながら、リエッキは酒杯に手を伸ばす。
そして思い切りよくぐっと呷ってから、さっき飲み干してしまったのだったと思い出してため息をついた。
空になった酒杯を未練がましく覗き込みながら、そこでようやく、大元の当事者であるはずの親友の存在を思い出した。
そのとき、彼女の背後で物音がした。
ユカだった。鼻歌など歌いながら本棚とにらめっこしていた彼は、リエッキと目が合うと、にぃ、っと子供じみた笑顔を広げた。
それから、「よし、これにしよう」と言って、本棚から一冊抜き出した。
そして、譚り出す。
「――説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう。これなるは風の一説。草原を吹き抜ける大地の息吹。雲を切り裂く天空の猛威。
夜と昼とを駆けめぐる、一陣の疾風の物語だ」




