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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 四章 かくれんぼでは鬼のことを

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■2 どうしてこんなに良い匂いがするのだろう

 また一つ、悲鳴が断末魔に変わった。

 目一杯に体重をかけた左前肢の振り下ろしに、恐怖を叫ぶ頭部がぐしゃりと潰れた。

 脳漿と頭骨、異なる色調を帯びた二種類の白が原初の赤の中にぷっかりと浮かんだ。


 そして断末魔すら止まっていた。


 この日の侵入者は八人だった。

 容赦もなく慈悲もなく、しかし同様に高ぶるなにかを感じることもないまま、図書館の番人はただ己の役目を果たす。招かれざる客たちを、ただ淡々と排除していく。


 逃げようとする一人に字義通りの尾撃を加える。

 横薙ぎに打ち付けた尾が脊髄を呆気なくへし折る。その感触が消えぬ間に再度尾を振り上げ、苦痛にのたうつ男に死の安楽を与えてやる。

 槍の穂先に似た尾先が閃き、首と胴とが手も振らずに泣き別れた。


 これで半分。

 生き残りと死体の数とを見比べながら、彼女は無感動に思う。


 血には酔っている。一人も逃がさぬと決めている。

 許さぬと決めている。


 けれどやはり、そこに感慨らしきものはなにもなかった。

 ただ、血に酔った心の片隅で無意識が呟くのだ。

 こんなことがなんになるのだ、と。


 雑念から眼を背けて、彼女は残り半分の侵入者たちを睨み据える。

 無駄だと思いながらも、彼女は一応の警告はしたのだ。去れ、と。

 それに対して、しかしこの男たちは下卑た笑いと嘲りの言葉を返し、どころか彼女自身をも一個の戦利品とみなして狼藉を行おうとした。


 そしてなにより、彼らはこの場所が司書王の図書館であることを知っていた。

 容赦の必要はどこにもなかった。


「貴様らは司書王を侮った。この場所に眠る記憶を冒涜した。だからそれは、死によって償え」


 静かな宣告とともに、番人は皆殺しの時間を再開させる。

 暴力の音響はその第一音から殺戮の音響を兼ねた。彼女は出口の間近にいた一人の所まで飛翔し、降着の次の瞬間には彼を頭からあぎとにかけていた。

 上顎と下顎が噛み合う音が奇妙に際だったあとには、その男の肩から上はこの世に存在していなかった。


 悲鳴が聞こえたのでそちらを見た。二人固まっていた。好都合だ、と彼女は思った。

 二人は互いに別々の方向に逃げだそうとしたので、まずは一人に向かって尾をしならせた。

 精妙な狙いで心臓を貫き、死体が膝をつくよりも先に今度はもう一人に向かいなおる。

 もはやすべての望みは絶たれたと知ったか、その男は処刑に臨む罪人のようにすっと背筋を伸ばした。

 彼女は執行人の役目を代行することでそれに応じた。


 こうして、八人のうち七人までが死体に変わった。

 彼女は己の身に備わった暴力の機能を最大限に駆動させてそれを成した。


 しかし、炎だけは一度も吐かなかった。


「……残るは一人か」


 急ぐ必要はどこにもない。

 悠然とすら呼べる足取りで、彼女は残る一人に歩み寄る。


 竜の視線を総身に受けて、最後の生存者が悲鳴に胸郭を引きつらせた。

 絶望に染まった表情は若かった。中年揃いのこの集団でただ一人の若者。まだ二十歳ばかりか、あるいはそれにも達していないと見える青年。これが最後の一人だった。


 青年は根を張ったようにその場に立ちつくしていた。彼女が近づいてももはや逃げようともせず、がたがたと震えながら小声で祈りのようなものを繰り返すばかり。

 それはしかし、別段珍しい光景ではなかった。

 最後の瞬間に人生最大の信心を発揮する侵入者たちは決して少なくない。彼女はその実例を何度となく眼にしている。

 そしてその都度、彼女は慈悲ではなく罰を与えてきた。

 無論、今回もそうするつもりだった。


 右の前肢を持ち上げて、ゆっくりと青年の頭頂に伸ばす。たなごころのうちで若い身体が恐怖に跳ねたが、彼女の心は少しも揺れなかった。

 まずは前方の三指、内趾と中趾と外趾を一本ずつ順番に折り曲げ、最後に後方の後趾を添える。それら四本の指で完全に青年の頭部を包み込んだ。

 あとは、少しだけ力を込めるだけで終わりだった。


 だが、いままさにそれを済ませようとしたとき、青年の声が彼女の耳朶に触れた。

 一心に繰り返される祈りの言葉。

 しかしそれは、神に捧げられたものではなかった。


「……助けて……助けて……母ちゃん」


 咄嗟に、棘にでも触れたように彼女は手を引っ込めた。

 その際に爪の一本が青年の頬を浅く裂く。極度の緊張の中もたらされた痛みに、青年が大袈裟に悲鳴をあげる。


 みっともなく泣き喚く声が、妙に遠ざかって聞こえた。

 そんな、声量ばかりが派手な絶叫より、さっきの消え入るような言葉のほうが彼女の中に大きく響いていた。


 ひたすら平坦だった心中に、さざ波が立っていた。


「……もういい、失せろ」


 彼女は吐き捨てるようにそれを告げた。

 この百年、幾度となく乞われながら一度として与えたことのなかったものを彼女は与えようとしていた。


 すなわち、慈悲を。


 青年が泣き濡れた瞳を瞠った。

 自分がなにを言われたのか、理解していない顔で。


「わたしは失せろと言ったぞ! それとも頭の中身をぶちまけるほうがいいのか!」


 彼女はもう一度怒鳴りつけた。

 言葉の鞭に打たれた青年が、弾かれたように踵を返す。這々の体で広大な広間を横切り、彼は一目散に出口を目指した。


「いいか! 次に現れたら今ここで殺されておかなかったことを後悔させるぞ!」


 逃げ去る背中に彼女は怒号を投げつけた。青年の代わりに、彼の恐怖が返事をした。

 悲鳴の谺を残して、ようやく辿り着いた出口から彼は生者の世界へと還っていった。



   ※



 本館へと通ずる通路もまた左右が書架になっていた。

 この図書館は壁という壁に本棚が埋め込まれている。

 浴室や厨房などの書物と相性の悪い場所を除けば、地下へと通じる螺旋階段を囲む壁ですらが例外ではない。


 その通路の途中で悪魔は彼女を待っていた。


「無事を喜ぶべきなのか、それともお疲れ様と労うべきなのか。ですがともかく、無用の心配であったことは間違いなかったようですね」


 リエッキを出迎えて、牛頭が明るい口調で言った。軽口の中に、彼の安堵があった。


「久しぶりだったからな、少し調子が出なかった」


 陽気に振る舞ってくれる牛頭に、リエッキも努めて明るく応じた。

 本当は身体に血の臭いが染みついていないかと、そればかりが気になっていた。


 これからあの子のところに戻るのに。


「死体の片づけがまた面倒でさ。お前も手伝えよ」

「あ、それじゃあ折角だから堆肥にしましょうか。発酵させてからでないと樹木を枯らしてしまうこともありますから、森に適当な安置所でも作って良い具合に腐ってもらうとしましょう。綺麗な花を咲かせるって言い伝えが結構あるんですよ、人の死体って」

「……お前って同じ人間でも子供と大人で扱いに差がありすぎじゃないか?」


 軽口ではなくちょっと本気で引いたリエッキに、牛頭が照れくさそうに後頭部を掻いた。褒められたとでも受け取ったのだろうか、と彼女は怪訝に思う。


「ところで」


 牛頭が、急に話を変えた。


「一人だけ生かして返してやったのは、久しぶり過ぎて調子が狂ったのが原因ですか? それとも死体の処理が面倒だったから?」

「なんだよ、見てたのかよ」とリエッキ。「……悪趣味な奴」

「別に笑うつもりはないですよ。慈悲とか慈愛とかは、私の好みとするところですから」


 気まずそうに顔を背けるリエッキに牛頭は言った。軽口の中に真摯な響きがあった。


「……別に」


 リエッキはややあってから言った。


「ただ、ちょっと考えただけだ。この若造にも子供の時があって、誰かに対して『だいきらい』なんて悪態をついたこともあったのかなって……そしたらなんか、殺すのがバカらしくなった」


 牛頭を鋭く睨み据えて、「なにか文句でもあるか?」と彼女は言った。


「……あるわけないじゃないですか」


 牛頭は言った。


「文句なんて、あるわけが」


 彼は、なにか誇らしいものを見るような目でリエッキを見つめていた。

 そうしてうんうん頷く彼に、「お前はいつも一人だけで納得しやがる」とリエッキが不満げに言う。


「……それより、カルメはどうしたんだよ。ちゃんと見つけてやったんだろうな?」

「安心してください。今はいつもの椅子にお行儀良く座って待ってますよ」

「ならいい。それじゃ余り待たせちゃ可哀相だ。早いとこ戻ってやろう」


 言い終わるよりも先に、彼女は牛頭を追い越して早足で閲覧室へと歩き出している。

 そんなリエッキに、後ろを歩いていた牛頭が声をかけた。


「リエッキさん。世の子供が『だいきらい』を言う相手の筆頭って、誰だと思います?」


 振り向きもせずに、「知るもんか」とリエッキは答えた。



   ※



 閲覧室に戻ると、求めていた姿はすぐに視界に認められた。

 カルメは小さな椅子にちょこんと座り、足をぶらつかせることもないまま大人しくしている。その様はお行儀がよいを通り越して見るからにしおらしかった。


「あんなにしょげて……バカな子だな。わたしが怒ってるとでも思ってるのか?」


 呆れたという苦笑を作ってリエッキは牛頭に言った。

 しかし、心のうちには熱を放って疼くものがあった。

 わたしは怒っていないと、早くカルメにそう教えてやりたい。その一念で彼女の内部ははち切れそうになっていた。


 太股までが大きく露出するのも構わずに、彼女は衣服の裾を持ち上げてくんくんと匂いを嗅いだ。

 血の臭いが気になって仕方がなかった。


「いいえ、あの子はバカではありませんよ」


 横合いから、牛頭が笑顔でそう反論した。

 それから、柔らかな口調で叱咤するように彼は言った。


「まったく、なにをまごまごしてるんですか。あなたの服は変身の度に真新しくなるんです、血なんかどこにもついてませんよ。だいたい、あの子にとってあなたはいつだって良い匂いなんです。いい加減少しは自覚を持ってください」


 どういう意味だと問い返すより先に、牛頭は書架の陰から彼女を押し出していた。


 ようやく姿を現したリエッキに、カルメが瞳を輝かせる。

 しかしそのときめきは、すぐに強い慚愧ざんきの影に覆い尽くされてしまう。

 椅子から立ち上がると、幼子は真っ直ぐにリエッキの元まで駆け寄ってきた。


「……うしょなの」


 彼女の衣服の裾に飛びついて、カルメは絞り出すようにそう言った。


「ウソ? ウソって、おい、なにが……」

「うしょなのぉ……うしょだからぁ……」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、カルメは鼻声でそれだけを繰り返した。

 なにが、と、リエッキはもう聞かなかった。彼女はただ幼子が落ち着くのを待った。

 やがてカルメはしゃくりあげながら言った。


「うしょじゃないっていったの、うしょなの。かるちゃん、りえっきのこときらいじゃないもん……あれぜんぶ、ほんとじゃないもん……ぜんぶぜんぶ、うしょだもん」


 そして、さらに力を込めて抱きつく。鼻水と涙が衣服の腰にべったりと付着する。

 しかしリエッキは構わずに幼い肩を抱き返した。


「つまりですね」


 すぐ後ろに牛頭が立っていた。

 事態を飲み込めないリエッキに彼は説明した。


「この子は自分の言葉に傷ついていたんですよ。大嫌いといったことであなたを傷つけてしまったのではないかと、そう考えたら悲しくなってしまったんだそうです。あなたを怒らせたとか、あなたに嫌われたとか、そんなことを恐れてるんじゃないんです。ただひたすらに、あなたのことを思いやってその涙は流されているんです」


 牛頭の解説を、リエッキは聞くともなしに聞いていた。

 なにを言っているのか半分くらいしかわからなかった。

 ただ、幼子を抱く力だけが、我知らず強くなっていた。


「高度なものの考え方、高度な感受性、とても三歳とは思えません。……ねぇリエッキさん、私の言った通りでしょう? 心配なんか、どこにもないんですよ」


 それには返事をせずに、リエッキはカルメを抱き上げる。


「やっぱり、バカな子だ」と彼女は言った。「きっと、世界一バカな子だ」


 しっかりと抱き直してやってから、彼女はカルメの背中を幾度か叩いた。


「ごめんな、わたしが悪かった。いつかあんたがかうめでもかるちゃんでもなくなっちまう、これからはその日を気長に待つよ。そんなのきっとすぐだし、きっと、そうなったらそうなったで少し寂しいんだろうしな。

 ……さっ! これで仲直りにしよう!」


 カルメは身体をさらに丸めて彼女にしがみついた。安堵が幼子の嗚咽を加速させた。


「また、いっしょに、おふろ、はいって、くれる?」

「ああ、いやだといっても入れるからな。あんたときたら毎日埃まみれになるんだから」

「また、かくれんぼ、してくれる?」

「うん。牛頭も仲間に入れてやろうな。あんなのでも仲間外れじゃ可哀相だ」

「また、ゆかのおはなし、してくれる?」

「……当たり前だろ。また、聞いてくれるか?」


 嗚咽としゃくりあげがいよいよ極まった。それが答えの代わりになった。

 ずり落ちてしまわないように、リエッキは体温の高い小さな身体を自分に密着させる。柔らかい髪がすぐ目の前にやってきた。

 その髪に、彼女は顔を埋めてみる。


 どうしてこの子はこんなに良い匂いがするのだろう。リエッキはそう思っていた。

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