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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話

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◆11 誰かを愛すると言うこと

 幸いなことに、『邪悪な魔法使い』に対する詮議せんぎの手が二人の宿に伸びることはありませんでした。

 その後、多少のぎこちなさはあったものの、青年と少女はいつも通りのくつろいだ時間を過ごしました。

 昼の事件など忘れたかのように談笑は陽気に沸いて、いいえ、忘れたどころかあれから後の広場での騒ぎなども笑って話の種とされたくらいです。

 青年が逃げ去った途端に『苦痛の黒』の魔法は効力をなくしたらしく、だから男たちもすぐに快方に向かったようだったとか。

 すんでに見逃されたあの貴族と呪使いは、青年の思惑通り、少女に対しておおいに感謝していたようだ、とか。


「命の恩人とかなんとか言って感謝感激してたけど、都合がいいからそう信じさせておくことにしたの。あとね、あなたをとっ捕まえようとかは考えないほうがいいとも言っておいたから。今度は見逃してもらえないかもよってたっぷり脅しつけてね」


 そう言って肩をすくめて見せる少女に、青年はやれやれと苦笑して応じます。

 

その夜、青年と少女が再び愛を口にすることはありませんでした。

 気恥ずかしかったというのももちろんありました。

 しかし第一には、二人が二人ともそれを語ることを必要と感じてはいなかったのです。

 既にお互いが想いを打ち明けて、そしてお互いがそれを受け入れていたのです。


 だから、言葉にはしません。

 言葉にせずとも、愛は確かにそこにあったのですから。


 夕食を二人でとり、順番に風呂を借りて汗を流し、そのあとはまた眠るまでおしゃべりです。

 やがて夜は深まり、二人はそれぞれのベッドに横たわります。

 二人で一つの寝床に入ることはしません。『目に見えない秘匿された部分に……』という青年のあの言葉は互いに過剰なほど意識されて、おやすみを交わしたあとも眠りつくまでは妙な緊張が室内に漂い続けたものです。

 彼と彼女の一日はそのようにして終わりました。


 そのようにして、彼と彼女の夢の日々はおひらきとなったのです。


 街全体が眠りに沈み、隣のベッドからの寝息にも乱れがなくなった頃、青年はひそかに起きあがりました。

 極力足音をたてぬよう気をつけながら、彼は少女の枕辺まくらべに立ちました。

 月の夜でした。差し込む月光は刃のように冴えて、灯りを用いずともやすらかな寝顔を眺めることは十分に可能でした。

 この寝顔をさっき挙げそびれたのは失敗だったな――そんな淡い後悔を苦笑で打ち消しながら、青年は愛する人の顔かたちを瞳に焼き付けます。


 それから、彼は仕事道具を入れた革袋だけを手に、一人部屋を抜けだしたのでした。


『……やっぱりか』


 見えない兄が言います。


『……やっぱり、おひらきにすんのか』


 悔しそうな兄の問いに、青年は軽やかな口調で「うん、そうだよ」と答えます。


「僕と一緒にいたら、やっぱり彼女はいらない苦労をする羽目になるだろうからね」

『あの娘はそんなことちっとも気にしねえよ。そのくらいわかってやれねえのかよ』

「わかってるよ」


 あっさりと答えて、青年は虚空に笑顔を向けます。

 曇りのない笑顔でした。


「でもさ、もしまた彼女がひどい扱いを受けたら、そのときは、僕は今日みたいに我を忘れちまうと思う。憎悪に酔って、狂気に駆られて……そんな姿を彼女に見られるのは、ちょっとたまらない。僕は彼女のヤサ男でいたいんだ。その為には、やっぱりここでおひらきにしないと」

『……それでお前は平気なのかよ? 辛かぁないのかよ?』

「うん、全然平気じゃないよ」


 彼はいとも簡単にそう認めました。

 月光に照らされた頬に、涙が伝います。

 ですが、笑顔は少しも崩れませんでした。


「……辛いし、すごく悲しいし、死ぬほど寂しい。きっと、僕は今日の決断をこれから先、一生後悔し続ける。しばらくは夜になる度に涙を流すかもしれない。いや、昼間にだって泣きだしちまうかも。ほんとはさ、今この瞬間にも彼女が起き出してきて引き留めてくれないかって、そんな身勝手な期待すらしてるくらいだ。

 ……けどね、兄さん」


 彼はそこで言葉を句切り、止まらずに流れる涙を拭って先を続けました。


「僕はね、彼女を愛してるんだ。彼女を諦められるくらい、彼女を手放せるくらい、僕は彼女が好きなんだ」


 寝静まる街の真ん中に立ち止まり、やはり彼は晴れがましい笑顔を浮かべていました。

 それ以上、兄は弟の決断に異を唱えませんでした。

 彼の弟は子供のときになくしたはずの笑顔を取り戻していたのです。十三の歳に故郷を逐われたときからなりをひそめ、その後の放浪の中で完全に失われてしまった屈託のなさ。無理や諦めの混じらない、正真正銘の明るさ。

 それをいま、十八歳の青年となった弟が取り戻していたのです。


 ならばそれ以上、いったいこの兄になにが言えたというのでしょう?


『お前は不器用で。かと思えば極端なところがあって、それに、あんまりに一途いちずでさ。……だから俺は、お前のその一途が報われるのをずっと願ってたんだぜ? そいつはこの俺自身が報われるのと同義で……いや、きっとそれ以上だったに違いなくて……』

「……ごめんね」

『ばかたれ、謝るなこの兄不孝者』


 そこではじめて慚愧ざんきする様子を覗かせた弟に、今度は兄が笑って言いました。


『で、そこまでの苦渋の決断をして、お前はこれからどう生きてくつもりなんだ?』

「そうだね。とりあえず、まずはこれから片づけようか」


 兄の問いかけにそう応じて、青年は左右の懐にあるものを取りだします。


 右手にあるのは白。彼という魔法使いの本質を象徴する、優しい癒しの色彩です。

 左手にあるのは黒。彼の中にひそむ過剰なものを象徴する、憎悪と苦痛の色彩です。


 青年は道の先を見据えます。

 大路の途切れたところには街を縦断して流れる河がありました。


「この世の中で、魔法使いはもう十分邪悪なんだ。だったら、僕の内側にまでこの色は必要ない」


 それだけ言うと、青年は刹那の逡巡も要さずに左手にあるものを放り投げます。

 闇の中に水音が響き、小さく広がった波紋が夏の星座をわななかせます。


「これからの僕に必要なのはこっちの色だけだ」


 己の魔法を投げ捨てた魔法使いは、残されたもう一つの魔法を見つめて言いました。


「昔に戻ろう。放浪の膚絵師はだえしに。それから、兄の忠告を聞き分けない馬鹿な弟に。兄さんがいくらやめとけって言っても、僕はまた苦痛の黒を消し続けるよ。そうしているうちに、少しずつでもきっと僕らを、魔法使いを理解してくれる人たちが増えるはずだ。……そしたらそれは、たとえ離れていたとしても、きっとあの子の幸せに繋がる」


 子供のような笑みを浮かべて、青年は見えない兄に宣言しました。

 以前から当たり前に行ってきたことが強い感情に導かれて明確な目的意識へと結びついた、これがその瞬間でした。

 強い感情。すなわち、それは少女への愛情です。


 あらゆる恋愛が成就を目的とするものであるならば、彼の恋愛はこのとき、既に終わっていたと言えるでしょう。

 恋愛は終わって、しかし愛情は不滅のものとなったのです。


「ねぇ兄さん。誰かを本気で愛するってことはさ、自分が主役の人生が終わるってことなんだ。だからさ、僕は彼女を好きになって、ようやく気付いたよ。つまり兄さんはずっと、こんなにも……こんなにも僕を愛してくれていたんだって。なのに僕は、今までそのことに気づきもしなかった」


 僕は不孝な弟だ――己を恥じる口調で弟は言いました。

 兄はなにも言いませんでした。言葉はなくて、しかし涙のそれに似た気配を弟は感じ取りました。


「ねぇ兄さん。いつか魔法使いへの偏見が世の中から消え去ったら、僕がまた彼女の傍にいられる日が来るかも知れない。そう考えると俄然やる気が出てくるよ」

『けっ、気の長いことを言いやがるぜ。そりゃいったい何年後の話だよ? そんときゃもう、あの娘はお前のことなんか忘れて別の男と幸せになってるよ』

「はは、そりゃ、たまらないなぁ」

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