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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
◆ 譚章 色の魔法使いの挿話

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◆6 無邪気な笑い声に、不意打ちのようにつないでくるその手のぬくもりに

 さて、青年にとってはいささかに落ちない経緯いきさつではありましたが、ともかくそれからのち、彼と彼女は旅の道連れとなったのです。

 友人として、保護者と被保護者として、そしてまた渡世とせいの相棒として、その後の二人は常に共にありました。


 一座に所属せぬ流しの踊り子と放浪の膚絵師はだえし。青年と少女の関係は実務的な面でも抜群の相性を発揮します。

 青年の化粧を、都度に応じて千差万別に異なり、しかもそのすべてが渾身こんしんの出来栄えを誇る色彩の美をはだに得て少女は踊ります。

 春のある日には紅の一色が情熱を貫き、また夏のある日には紺碧こんぺき生成きなりの白が涼しさを演出します。

 烏羽からすば深緋こきひが高貴さを醸し出したかと思えば、次の現場では白花と瑠璃が陽気な愛嬌あいきょうを引き立てるといった次第。


 青年の技術の確かなることはここまでに申し述べてきた通りですが、少女の才覚もまた同様。

 あの祝祭の日に見せつけたものはただ一度の奇跡ではなく、むしろ場数を踏むほどに洗練の度合いは増してゆきます。

 幾多の祝祭を渡って喝采は万雷、数多の縁日を廻っておひねりは雨霰あめあられ

 ただ二人だけの巡業はことほどさように観衆の目をとりことし、歩んだ道程はそのまま伝説の軌跡となります。


 そのようにして月日は廻ります。


 一年後、もはや青年はお客を取ってはおりませんでした。

 少女の膚に向かうときとそのほかの客に対するときとでは自分の中の熱意に落差があることに気づいて、彼は祝祭の広場に看板をさげるのをやめたのでした。

 百人の客とたった一人の少女の笑顔とを己の中で天秤にかければ、前者を乗せた皿はいとも呆気なく跳ねあがったのです。


 僕は膚絵師として失格だ。公平さを失って、お客に対する真摯さを失って……。

 深くため息をついて、彼は色の渉猟しょうりょうを再開します。顔料の材料となる品々を求めて、人出に沸く市場を歩きはじめます。


 膚絵師としての己に失望を覚えながら、しかし彼の中で、色に対するこだわりはおとろえるどころか以前にも増して大きくなっておりました。

 傍目はためにはほとんど違いのわからぬ黄檗きはだと栗花色を厳しく区分して、その微細な違いの為に一日を費やすといったようなこともしばしばです。


 そこに労力の計算はなくて、そこに一切の妥協はありません。

 少女の膚を彩る色彩、それを求める彼の熱意には。


 と、そのときです。

 両脇に無数の店屋が連なる大路の先から、親しみ深い笑顔がこちらに駆け寄ってくるのが見えました。

 旅の道連れにして友人でもある娘が。彼の渡世の相棒が。

 あるいはそれ以上の存在である少女が、こっちにやってきます。


『さて、俺はちょっと一人でぶらぶらして来んぜ』


 見えない兄が唐突にそう言いました。それじゃな、と、遠ざかりつつある姿なき声が青年の耳に届きます。

 最近、彼の兄はこうしたことが多いのです。『死人には死人の付き合いってのがあんだよ』などとうそぶいては、それまで四六時中一緒であった青年から離れて一人でふよふよどこかへ行ってしまうのです。

 そしてそれは、青年が少女と二人きりになるような場面に限られていました。

 いったいどういうつもりなのか……。

 青年が今はこの場にいない兄をいぶかしんでいると、やがて走り寄ってきた少女が、嬉しそうに彼の腕に自らの腕を絡ませてきたのでした。


   

   ※



 時節を迎えた花々がつぼみを開くように。ある種の鳥たちが長じて飾り羽を得るように。

 一年が過ぎて、少女はあらゆる面においてうるわしさを深化させ、進化させています。

 もちろん、まず第一にそれは演舞の冴えにあらわれています。

 そして、第二には見目の容色として直裁ちょくさいに表出しています。

 時間の洗礼を受けて愛らしさは美貌と呼ばうべき領域へと目覚めて。しなやかな肉体は、しなやかさの上に曲線を幾重にも帯びて。

 ああ、その手弱女たおやめぶりときたら、いまや形容の言葉を探すのも困難なほどの嬋娟窈窕せんけんようちょうの極み。

 たとえ舞わずとも歩くだけで、いいえ立っているだけで、彼女の存在はすべての男にとって眼福がんぷく、瞳の祝福でございました。


 しかし、青年にとっては。


 無論のこと、彼もまた少女の中で開花してゆくものには気付いています。

 ええ、当然ですとも。誰よりも身近で日々の彼女を見続けてきたのは、なにしろ他ならぬ彼なのですから。

 ですが、陽射しを受けて輝く亜麻の妙髪たえがみも、あらゆる男どもが振り向かずにはおられぬ明眸皓歯めいぼうこうしも、青年にとってはさほど重要ではありませんでした。

 彼は他の誰もが、それこそ少女本人ですらが気付いてはおらぬであろう部分にこそ、最も大きな変化を感じ取っていたのです。


 たとえば、自分との談笑で彼女がたてる無邪気な笑い声に。

 たとえば、いつも不意打ちのようにつないでくる、その手のぬくもりに。

 ああ、それに、そう、たとえば――。


「ねぇ、なにを考えてるの?」


 ひとり物思いの世界に沈みかけていた青年に、隣を歩いていた少女が声をかけます。

 彼女の左腕は青年の右腕に回されたままで、その密着が青年の心を乱します。


「……いや、別になんでもない」


 青年がそうはぐらかすと、少女はなにやら意味ありげに「ふうん」と言って、それから、上目遣いの笑みを彼に向けてきます。

 楽しくて仕方がないというような、いたずらな笑顔を。


 そう、たとえば――青年はさらに思考します。

 たとえばこの猫科の笑顔に、甘え上手な仕草の数々に、なぜだか彼はしばしば酒を飲まずとも酔い心地とされるのです。


 それには少女の発散するなにかが関与しているのが明らかで、しかし彼にはその正体が掴めません。

 片眼の魔眼でいくら彼女を凝視しても、それは色としてはあらわれていません。右目を閉じて左目で見ても、逆に左目を閉じて右目で見ても、やっぱり見えはしないのです。

 正体の掴めぬ……すべてを見抜くはずの特別製の眼にも捉えることのできぬ、第三の謎の魅力。

 これこそが、青年にとって最も重要な少女の変化でございました。


「……まさか、これもなにかの魔法ってことはないよな」

「え、なにが?」

「……なんでもない」


 青年が誤魔化すように苦笑した、ちょうどそのときです。

 なにやら騒然として行く手の雑踏が割れて、やってくるのは担架を担いだ若者衆。そして、運ばれてくるのはまだ五つか六つほどの男の子でございました。

 幼子は市場の喧噪を引き裂いて悶絶を叫んでおり、担架に寄り添う母親もまた、我が子の絶叫に絶叫で応じるが如くに悲鳴を途切れさせません。


「ねぇちょっと、あれ、どうしたの?」


 少女が野次馬の一人を捕まえて事情を問いました。


「揚げ物屋のガキがな、悪ふざけしてて鍋をひっくり返しちまったんだとよ」


 問われた男が眉をしかめて答えました。


「不幸の中の幸いで火は消えてたんだが、しかし鍋の油はまだしっかりと熱かったそうだ。で、そいつを二の腕までどっぷりと浴びて……ああ、考えるだにいたましいぜ」


 青年が色彩の魔眼を開いて運ばれていく担架を眺めてみれば、なるほど、子供の左腕にあるのはあまりにも危険な色合いです。

 激痛を直視させる暗黒の中に走る、渇いた血のような赤……火傷やけどのひどさを物語るそれらの色に、青年は思わず己の腕を押さえてしまったほどです。

 あの色を消してやらなければ、と彼は思います。

 黒を白で塗り消し、幼子を灼熱しゃくねつの苦しみから解放し、母親の涙を止める。

 僕にはそれができる。それが僕のすべきことだ。


 懐をまさぐり、そこに癒しの色の顔料があることを確認します。

 それから、青年はいましがた担架が向かった方向に向かってきびすを返します。

 そうして、彼が歩きだそうとしたとき――。


「あの子を助けてあげにいくんだね」


 聞き親しんだ声が、彼の耳朶じだに、柔らかくぶつかったのです。

 見れば、少女が彼を見つめています。

 連れ合いの優しさを誇る、嬉しげな表情で。


 この一瞬に、青年の脳裏にあらゆる思考が去来します。

 これまでに投げつけられてきた暴言と暴力の数々が、繰り返された迫害の一つ一つが、頭の中に蘇ります。

 忘れられぬものから、もはや忘れたと思っていたものまで、すべてが。


 なんでだ? と彼は思います。

 だって、僕はもうそんなのには慣れっこで、そんなのは織り込み済みで……だから、なんで今さらになってこんな……。

 己の内側に未知の感触てざわりを覚えて、青年は大いに戸惑います。

 早く行ってやらねば、と彼は思っているのです。

 しかし同時に、行ってはならない、と内なる声が叫ぶのです。


 烈しい葛藤が彼を揺さぶっておりました。

 それまでは無縁であったはずの葛藤が。

 意味不明な精神の作用に青年は呼吸をひどく乱し、その顔は青ざめてすらいました。


「ねぇ? 大丈夫?」


 そうした状態の彼に、声は天啓のように再び降りそそぎました。

 青年は顔をあげます。

 そして、目の前にいる少女をまじまじと見つめます。

 よろめきかけていた背中を支えてくれ、心から案じる表情で彼を見つめている彼女を。


 その瞬間に、理解は彼を貫きました。


 自分がもしもあの子供を助けたら、そのときはどうなるだろう――もたらされるであろう結果について彼は考えます。

 母親は泣いて感謝してくれるか?

 子供は笑顔でありがとうと言ってくれるか?


 ……そんなことはあり得ない。そんなことは、これまで一度だってなかったのだ。

 与えられるのはいつも迫害であり、投げつけられるのは罵声であり暴力だった。

 今回だって、きっとそれは同じだ。

 そんなのは慣れっこだ。そんなのは、僕は……俺は、どうだっていい。


 けど今は、追われるのは自分だけじゃない。

 迫害のつぶてを受けるのは、この俺だけでは。


 やめておけ、そう忠告してくれる兄は、いまはこの場にいませんでした。

 だから青年は、自分の意思でそれを決めて、自分の言葉で少女に告げました。


「……帰ろう。あの火傷は、僕の手には負えない。だからあれは、医者に任せよう」


 力無くそう言った青年に、少女はほんの一瞬だけなにか言いたそうな顔をします。

 ですが、結局なにも言わずに「うん、わかった」と返事をしました。



 少女に支えられて宿に帰る道すがら、青年はそれ以上一言も口を利きませんでした。

 理解が、あらゆる物事に対する理解が、次から次へと青年の心に押し寄せていたのです。


 たとえば、迫害は彼という個人ではなく、魔法使いという人種が受けるものなのだという事実。

 頭ではわかっていても深くは考えたことのなかったそれを、彼は改めて認識したのです。


 そしてその中には、隣を歩いている少女もまた含まれているのだということを。


 彼ははじめて怒りに震えました。魔法使いへの迫害を正義と信じて疑わぬ人々への怒りに。

 彼は悲しみに冬を感じました。自分一人ならば諦めてしまえる(そして実際に諦めてきたはずの)諸々《もろもろ》が、なぜだか悲しくて悲しくてたまりませんでした。


 そうした感情に揺れ動きながら、青年はもう一つ重大な理解を得ています。


 それまで正体の掴めなかった少女の変化について。

 自分だけが知ることのできる彼女の魅力について。

 なぜそれが自分にだけ感じ取れたのか。なぜそれが色にあらわれなかったのか。


 わかってしまえば簡単な話でした。つまりその変化とは、少女ではなく彼自身の内面に生じたものだったのです。

 だから、いくら少女に特別の瞳を凝らしても見えることがなかったのです。

 彼はいまこそそれを知ったのでした。


 ままならぬ悲しみに包まれながら、彼はようやく恋愛を自覚したのです。

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