■7 ずっと、当たり前にそこにあった物語
魔法で生み出した光球はすでに消えている。
無粋な光の球はいつの間にか消されていて、地上の光源はただ焚き火の炎だけとなっている。
暖かく柔らかな火。
ユカが彼女の為に手ずから起こしてくれた、特別な炎。
「思えば昔っから、あんたはしょっちゅうさっきみたいな論法を使うんだ」
焚き火の向こう側に座っている親友に向かって、リエッキは笑いかけて言う。
「二つとか三つとか四つとか……ま、たいてい三つかな。とにかく、あんたが指折り数えるようになにかを話すとき、本当に言いたいことは決まって最後の一つなんだ。最後の一つのために他の二つをでっちあげる、そういうことだってしばしばだ」
図星だろ?
そう眼差しと笑顔で問い詰めるリエッキに、ユカもまた誤魔化すように苦笑いする。
「でもでも、今回は他の二つもきちんと大事だよ。森渡りに都合がいいのはほんとのことだし、『深きの森の司書王』だってカッコいいでしょ?」
数合わせのでっちあげなんかじゃ断じて、ないよ!
そう必死に否定するユカに、はいはいそうだな、とリエッキは茶化して応じる。
なにかがすっかりほぐれている。
そのことをリエッキはまざまざ、感じている。
「なぁ、なんか、見られてるな」
「うん、森の中から、獣たちの視線を感じる」
きっとあれが噂のお化け山羊だねと、四方の森をぐるりと見渡しながらユカ。
「ここは彼らの王国なんだ。新参者として、あんまり無礼がないようにしなくちゃ」
「そうだな、これから仲良く付き合っていかなきゃだもんな。……けど『お化け山羊』って呼び方はなんか、いかにも気味が悪くて、やだな」
「それ、わかる。そのうちなにか別のもっと良い名前が見つかるといいんだけど」
「そうだな。でもま、ご近所さんの呼び名については全然後回しでいいさ。それより先にやんなきゃいけないことは山ほどあるんだし」
薪山に手を伸ばす。中くらいの枝を掴んで、焚き火にくべる。
「なぁ、どうやってこんなところに図書館なんか建てるんだ? 木材になりそうな樹は周りにいっぱいあるけど、木こりも大工もこの森には来てくれないんじゃないか? 森渡りでどっかよそから連れてくるのか?」
「知りたい?」
「知りたい」
「えへへ、ナイショ」
「おい、ここまで来てまだ秘密かよ? ……たく、まぁいいけどさ」
焚き火の中で薪が爆ぜる。小さく心地よい音を立てて。
その火の音響が、静けさをかえって補強しているようだった。
あたかもくべられて火を育てる薪枝のように、焚き火の音が静けさを育てる。
――なにかがほぐれていく。固く強張っていたなにかが、柔らかくほぐされる。
会話はさらに続く。
さらにいくつもの益体のない話題が、火と静寂の上を行き交う。
「正直なところ、わたしはあの呪使いの言い分にあらかた賛成なんだけどな。うん、あのお説教の数々にはついつい『もっと言ってやれ!』って思っちまったよ」
「なんだよう、親友の癖にあっちの肩を持つのかよう」
「どっちの肩を持つとかそういう話じゃないっての。というかな、いい加減にしとかないとあんた、そのうち本気でやっこさんを怒らせるぞ? 右手と左手じゃ握手できないって、思い知らされるぞ?」
「その時は僕が左手を差し出すよ。わはは、僕はこの通り柔軟にできてるのだ」
「はん。軟弱の間違いじゃないのか?」
そうして話題の数だけ、二人、炎を挟んで笑い合う。
「さて、もう少し枝を拾い足してくるよ」
しばらくしてユカが言った。
ついでに山羊さんたちに挨拶してこようかな、彼は笑ってそう付け足した。
「すぐ戻るからさ、君はここで火に当たって待っててね」
言葉に命令的な響きはなかったが、しかし彼女は言われた通りにした。
座ったまま、森へと消えていく親友の背中を火の前から見送った。
ふと薪山に目を向けると、そこにはまだ十分な嵩が保たれていた。
「……」
一人になってしまうと、途端にすべてが夢であったように思えてきた。
鉛のようだった言葉がすっかり軽くなっていたことも、また以前のように屈託なく笑えたことも、すべては寂しい心が見せた束の間の夢だったのではないかと、そんな錯覚に襲われた。
静けさの質が変わっている気がした。
さっきまではなかった寒さを肌身に感じた。
背中を丸めて、彼女は炎に身を寄せる。
早くあいつが戻って来ますようにと背中を震わせながら、ユカこそがこの自分の体温なのだと、あらためてそう噛みしめた。
いつか必ず失われてしまうぬくもり。
「おまたせ! ほら、いっぱい拾ってきたよ!」
やがてユカが戻ってくる。両手にいっぱいの枯れ枝を抱えて。
大量の枝を薪山に置いたユカは、そのまま焚き火の前に腰を下ろす。
最初に座っていた場所ではなく、リエッキの隣に。
「おまたせ」
彼は彼女の肩に手を回し、そのままぐっと引き寄せる。
抱き寄せる。
「……おまたせ」
どんな火よりも柔らかく、どんな火よりも暖かな体温がリエッキを包み込んだ。
「……」
リエッキは自分からも親友に身を寄せる。
彼の肩に頭をもたせかけて、自分の体重を彼に預けて、それから、彼女は言う。
「……話してもいいか?」
うん、まってた、とユカは言った。
※
「……わたし、ずっと寂しくて、ずっと心細かった」
ユカに肩を抱かれながら、リエッキは静かに言葉を紡ぐ。
お互いの顔を、ユカもリエッキも見ていない。
二人とも隣にいる相手のことはちらりとも見ないで、ただ目の前の焚き火に視線を据えている。
「未来のことを考えると、どうしようもないほど不安に襲われる」と彼女は語った。
「なのにわたしは、気付くと無意識にその不安の材料を探してる」と彼女は語った。
「だけど、わたしにとってなにより悲しくて寂しかったのは、その不安をあんたに打ち明けられないことだったんだ」
語るのは、言葉を吐き出すのは、リエッキだけだった。
懸命に想いを吐露するリエッキに、ユカはなにも言わない。小さな相槌の一つすら彼は打たない。
なにも言わずに黙ったまま、彼はただ沈黙によって彼女に寄り添った。
彼女が失ってしまったと泣きたくなった、あの親密で優しい沈黙。
二人のあいだはもう、少しも濁っていなかった。
「あんたに笑いかけられて、どこか偽物みたいな笑顔を返してる自分が情けなかった」
「隣を歩くあんたを遠く感じて、一緒にいるのにひとりぼっちみたいで、心細かった」
「『遠くまで来たね』ってあんたが言った時、『そうだな』って答えられなかった。そのことが、いまでもまだ心を締め付けてる」
伝えられずにいた言葉と感情を溢れさせるうち、いつのまにか涙まで溢れていた。
泣いているリエッキに、ユカは『大丈夫だよ』とも『わかってるよ』とも言葉をかけない。
彼はやっぱりなにも言わずに、抱き寄せる手にもう少しだけ力を込めた。
それで十分だった。
それだけでリエッキは、『大丈夫だよ』と『わかってるよ』と、そしてそれ以外のあらゆる優しい言葉を、全部いっぺんにかけられたような気がした。
核心部分に踏み込む為の最後の勇気は、そのようにして得られた。
「……あんたはいつか、わたしを置いて先に死ぬ」
これまで何百回、何千回と思い描いてきた恐怖を、彼女ははじめて声にして言った。
「出会ったときからずっと一緒にいて、今だってこんなに近くにいるあんたが、ある日わたしの前から永久に消えてしまう……そんなのは、天の星が全部砕けちまうよりもでたらめなことに思えるのに……でもその日は、いつか必ずやってくる」
わたしには、それが――リエッキはそこで言葉を詰まらせた。
ユカはなにも言わない。
彼はただ肩を抱いて彼女の言葉を受け止める。
「いつだったかあの呪使いが、わたしにだけ言ったんだ。わたしが火を吐くドラゴンなら、あんたは言葉を紡ぐ物語のドラゴンだって。ああ確かにそうだ、あんたの言葉にはそれだけの威力がある。あんたの物語にはどんな竜の火も顔負けだ。
だけどそれでも、あんたは本物の竜じゃない。だから、あんたはいつか……」
また言葉が詰まった。
焚き火の揺らめきが大きくなった。頭がクラクラして、呼吸がひどく辛かった。
「……怖いんだ。目を覚ました時にあんたがいなくて、名前を呼んでも返事がなくて、それで、もう二度とあんたがわたしの名前を呼んでくれなくて……そんなの、わたしには想像もできないほどの恐怖で、だから……。
そうなったらもう、わたしは、わたしを――」
そこが彼女の限界だった。
涙が勢いを増して、制御を失った嗚咽が続けるべき言葉を飲み込んだ。
喘鳴じみたしゃくり上げの中で、彼女はやっとのことで、訴えるように言った。
「怖いよユカ。わたし、怖いよ」
抱きしめられたのはその時だった。
横から肩を抱くのではなく、正面から力いっぱいに抱きすくめられたのは。
リエッキを思いきり抱きしめながら、ユカは彼女の背中を優しく叩く。
そうしながら、ようやく彼は声を発して彼女に言ったのだった。
「話してくれてありがとう」と。
言葉を紡ぐのは常に片方だけだった、そんな不思議で濃密な対話は――けれどもそれは確かに対話だった――その瞬間に終わりを迎えた。
リエッキはユカの胸に顔を押しつけて、彼の胸に向かって声と涙を吐き出す。
そうして泣き続ける彼女にユカは言った。
「ねぇリエッキ」
降ってきた声に顔を上げようとしたリエッキの頭を、ユカの手が優しく胸に押しつける。
いいから、そのままで聞いて、と。
ユカは片方の手でリエッキを抱きながら、もう片方の手を傍らに置かれた本棚へと伸ばす。
「ねぇリエッキ、これがなんだかわかるかい?」
そう言ってユカがリエッキの目の前に持ってきたのは、一冊の本、一冊の物語だった。
それは最初の物語だ。
この本棚をリエッキがはじめて背負ったその瞬間からそこにあった、記念すべき最初の蔵書。
以降何度本棚の中身を入れ替えても変わらず決まった位置に収まっていて、にもかかわらず、これまで一度たりとも読まれることも譚られることもなかった一冊。
『旅する書架の物語』
「――説話を司る神の忘れられた御名において、はじめよう」
その物語を、今こそユカは解き放ったのだった。




