■3 もう二度と、死ぬまで離れない。
周囲には街の声がある。誰かが笑いながら誰かの名前を呼び、誰かと誰かが世間話に花を咲かせ、誰かが歌を歌いながら通り過ぎていく。
そうした街角の情景がいくつも折り重なって、『街』という名の賑やかな空気が醸成されている。
生憎、子供たちには会えなかった。
二人が噂を頼りに兄夫婦を訪ねて行ったちょうどその日、双子たちは兄妹だけで泊まりがけのお使い旅行に出かけていた。
甥姪の成長した姿を楽しみにしていた二人には残念なことだったが、その代わり、双子の両親である膚絵師と踊り子は揃って彼と彼女を歓迎してくれた。
「こうして姉さんたちに会うのは何年ぶりだろう?」
「たしか三年くらいじゃないか?」
「三年と、足す、さらにもう何ヶ月かかしら? あたしたちがお母様の森を出たのが三年前で、その少し前から二人とは会ってなかったから」
踊り子が指折り数えながらそう答えた時、歓談している三人の前に、色の魔法使いがパイの乗った大皿を置いた。
「このあたりの郷土料理だ」
甘い果実と脂ののった肉がごっちゃに入ってるが、美味いぞ。そう解説しながら、膚絵師はナイフでパイを切り分けていく。
香ばしさとさわやかさと少しの甘さが入り交じった匂いがして、ユカがわっと歓声を上げる。踊り子が全員分の取り皿を並べていく。リエッキの口の中には、早くもよだれが湧き出している。
「森を出てから、暮らしぶりはどう? なにか難儀はしていない?」
全員でパイを食べながら、ユカが踊り子に聞いた。
自分たち家族を慮る弟に姉は、難儀なんてちっともしてないわよ、と答える。
「ほんと、世の中すっかり変わっちゃった。魔法使いってだけで血相変えて追い立てられてた時代も今は昔、最近じゃどこの街に行っても大歓迎よ。昨日までなかったところに布でできた家が建ってても、みんな気味悪がるどころか面白がって集まってくる。怪我をした人はお医者を差し置いてうちの人を訊ねてくるし……というか、お医者さんが『あっちに行くといいですよ』って患者さんにうちを紹介するのよ?」
いま食べてるパイだって街の人からの差し入れなんだから。
やれやれという口ぶりでそう言った踊り子に、「骨を治してやったお婆さんが毎日持ってきてくれるんだ」と、嬉しさと照れを綯い交ぜにしたような表情で色の魔法使い。
「すごいなぁ、さすが兄さん、信頼されてるんだなぁ」
「そうよ。この人ばかりでなく、いまや魔法使いは信用と信頼の対象。差別と迫害の時代は遠くなりにけり。君たちのおかげでね」
そう言って、踊り子がテーブル越しに手を伸ばして、ユカの胸をとんとついた。
子供の時と同じように。
ユカはえへへと笑いながら、
「僕と左利きだけじゃないよ。兄さんと姉さんと、みんなで変えたんだ」
「なんだっていいわ。とにかく良いご時世になったってこと。子育てもしやすいしね」
うちの子たち、どこの街に行ってもすぐに遊び仲間の人気者なのよ?
踊り子が若干親馬鹿気味に言って、ユカが、会いたかったなぁ! と悔しがる。
リエッキの空になった皿に、色の魔法使いがさらに一切れパイを乗せてくれた。
これが踊り子と膚絵師の近況報告だった。
森を出た後、二人は子供たちと共に街々を巡って暮らしているらしい。辿り着いた街に一家はしばらく住み着き、その間に色の魔法使いは医者の手に負えない傷病を魔法の色で治療する。そうして街に蔓延るすべての黒を退治し終えたら、また布の家を畳んで次の街へ。
その繰り返し。
膚絵師と踊り子じゃなくて旅医者みたいだな。
そんなリエッキの感想に、「あら、いまでも気が向いたときに酒場で踊ったりしてるのよ?」と踊り子が反論する。
それから誰もなにも言っていないのに「いま三十路も半ばの癖にって思ったわね!」と爪を立てて威嚇の仕草となり、この一幕には全員がたまらず相好を崩した。
一家の生活のつつがなさは、それで十分伝わった。
それから。
「それじゃあユカ、そろそろそっちの話も聞かせてもらえるか?」
「うん、聞いて聞いて」
色の魔法使いに促されて、今度はユカが自分たちの近況を話す。
先だってついに世界の終わりに辿り着いたこと。それによって図らずも『大地は球かった』という世界の真実を証明してしまったこと。
そして、今は図書館をつくろうとしているという話も。
「図書館?」
踊り子が驚いた顔でユカを見て、それから、なにやら物言いたげな顔をリエッキに向けた。
リエッキは首を横に振って肩をすくめる。
そういえばあの呪使いともこれとまったく同じやりとりをしたな、リエッキはそんなことを思い出していた。
兄夫婦の困惑顔などどこ吹く風と屈託なく、かくかくしかじかとユカは語る。
旅の人生のおしまい、生活の根を下ろす終の住処……天下無双の、理想の図書館。
「理想の図書館……しかしそれは、いったいどんな図書館になるんだ?」
夫婦を代表してそう質問した色の魔法使いに、ユカは平然と「さあ?」と答える。
「『さあ?』って……計画とか構想とか、少しもないのか?」
「うん。さっぱり。なにしろ僕ってば、今まで図書館ってものに全然、少しも、これっぽっちも興味を持ってなかったからね」
「全然、少しも、これっぽっちも興味のなかった図書館を作って、そこに住むの?」
「うん」
「なぜ……?」「……なんで?」
いよいよ困惑の度合いを極める兄夫婦に、ユカはやっぱり屈託なく。
「そりゃもちろん、僕が司書王だからさ!」
司書王の住処なら図書館しかない、でしょ?
そう事もなげに、むしろ自信満々に、当然の論理を説くように言った。
踊り子と膚絵師はまたも顔を見合わせる。
しかしすぐに、二人同時に、あたかも負けを認めるようにぷっと吹き出した。
「ま、仕方ないわよね。なんたってユカくんはユカくんなんだから。君ってばほんと、いくつになっても相変わらずだなぁ」
君だってもう三十路なのにさ、と踊り子がからかい、まだあとほんのちょっとだけ二十路だよ! とユカが滑稽にも真剣に反論する。
やかましくじゃれ合う二人の傍らで、色の魔法使いがリエッキに視線を投げかける。
いいのか? と、膚絵師は瞳で竜に問いかける。
自分を案じてくれる兄の心に感謝しながら、彼女は答える。
言葉ではなく、小さな肯きとわずかに口角を持ち上げた表情によって。
うん、いいんだ、と。
いつのまにか、窓の外では日が傾いていた。
街の声が夕景を帯びはじめている。
パイはもう、一欠片も残っていなかった。
暇を告げる前の最後の話題は双子たちのことだった。
「二人揃って今年で十歳、早いもんよね。君たちが届けてくれた帽子もさ、最初は帽子に食べられてるみたいだったのに、今ではすっかり似合うようになったのよ?」
「返す返すも会えなかったのが残念だなぁ。でも、子供だけで別の街までおでかけなんて、親としてはちょっと心配じゃない? まだ十歳なのに」
「ぜーんぜん、心配なんてちっともしてないわ。『まだ十歳』じゃなくて『もう十歳』だし、保護者なら姿はなくともお義兄さんがついててくれるんだもの」
それにね、と。
わずかに声の調子を変えて踊り子は続けた。
「あの子たちも、いつかはあたしたち親の手から巣立っていく。二人とももうはっきり夢を持ってるんだから、きっとその時はそう遠くない。だからそのひとり立ちの……というかふたり立ち? とにかくその時の為に、親離れの練習をしておかなくちゃ」
「うん。僕がちっちゃい頃に、母さんもおんなじことを言ってた」
「あはは、それってなんか、嬉しいなあ。あたしってばお母様から、知らないうちに薫陶よろしき、しっかり授かっちゃってるんだなぁ。
ま、とにかく! 子供たちのこともあたしたち夫婦のことも、心配なんて全然いらないってこと。今は久しぶりの夫婦水入らずを満喫してる。
……そしてね」
踊り子はそこで立ち上がると、座っている色の魔法使いに後ろから抱きついた。
ユカとリエッキが見ていることなど、少しも構わずに。
「いつかあの子たちが巣立っていったあとも、あたしはこの人から離れない。お義兄さんともそう約束したんだ。
……だから、もう二度と、死ぬまで離れない」
ユカとリエッキは知らない。
この時の姉の言葉に、いったいどれほどの決意が込められていたのかを。
それに、兄の特別の瞳に異常が起こり始めていたことも。
この時の二人はそんなことつゆ知らず、だから、目の前で演じられる愛情の場面を単なる惚気と捉えて、ただ無邪気に冷やかすことができた。




