■1 親愛なる共犯者
そうして彼はしばし考えを巡らせ、そのあとで、なるほど、と言う。
「なるほど。ではここまでの貴様らの証言を、今度は私の言葉でまとめるぞ?」
いましがたユカから聞き取った内容をまとめた帳面をめくりながら、彼は――ユカの生涯の宿敵である左利きは、対座する二人に向かってそう言った。
「一年ほど前、貴様ら二人は大地の東の果てからさらに東に向かって、今度は海へと漕ぎ出した。貴様らを乗せた船は実に季節が一巡するほどの長いあいだ未知の海原を航海し――この航海中にも興味深い発見をいくつもしたようだが、ひとまずそれは置いて話を進めるぞ――、先頃、ついに暫定的な終着点に到達した」
だが、まさにこの終着点こそが問題だった。
あたかも長い話に段落を設けるように左利きが言った。
場面はいつもの詛呪院、その執務室である。
長い海上生活から陸へと帰還して数日が経ったこの日、ユカとリエッキはさっそくこの宿敵を訪ねていた。
数年がかりの大冒険を成功させた達成感……ではなく、不気味な謎と、その謎がもたらした目一杯の混乱と戸惑いを携えて。
「貴様らは世界の果てを、最も遠い場所を目指して旅をしていた……はずなのだが、旅路の末に発見した未知の大地には、すでに我々と同じ姿をした、我々と同じ人間が暮らしていた」
「そうなんだよ! 暮らしてたんだよ、住んでたんだよ!」
「のみならず、この未知の大地に住む人々の文化は、なにからなにまで我々の文化に酷似していた。服装にも街を形作る家々にも、既視感を越えた既視感を覚える」
「まさに! 覚えた!」
「極めつけが、どういうわけか言葉まで通じる」
「そう、通じちゃったんだよ!」
交わされる井戸端会議の内容が聞き取れ、店屋の掲げた看板の文字が読み取れた――左利きが帳面を読み上げるたびに、「聞き取れた! 読み取れた!」とユカが求められてもいない相槌を打つ。
こうしたユカの騒々しさをものともせず、左利きは粛々と証言内容の反復を続け。
その最後に。
「そうして最終的に、貴様は次のような事実を認めた。『というかぶっちゃけ、僕たち前にもこの街に来たことあるよね?』と」
そう締めくくった宿敵に、ユカがうんうんと何度も、それも激しく肯いた。
あれから間もなく、二人を乗せた船はついに目指していた『世界の果て』へと辿り着いた。二人が言葉にしない領域で共有していた予想は、見事に的中したのだ。
だが、ユカとリエッキがそこを『世界の果て』と見做した理由――見做さざるを得なかった理由のほうは、はなはだ想像の埒外にあった。
前人未踏の大地であるはずのその場所は、すでに人々の手によってすっかり拓かれていたのである。
どころか、別の土地で雇用した船員たちは知らないことだったが、ユカとリエッキは過去にその港町を訪れたことすらあった。
「……なるほど。ずっと目指して旅していた世界の果てで待ち受けていたのは、前人未踏どころか、個人的な未知ですらなかった、というわけか」
そこで左利きは、手にしていた帳面を閉じて机の上に置いて。
「うむ、やはりそういう結末になったか。私の予想していた通りだ」
「はぁ!? なにそれ!?」
一人で勝手に納得する左利きにユカが抗議の声をあげた。
差し入れてもらったお菓子をやっつけるのが忙しくてここまで積極的に会話に参加していなかったリエッキも、さすがにこれには一言文句を言う。
おい、ちゃんと説明しろよ。
「つまりだな、貴様らは世界を『一周』して戻ってきたのだ」
「……一周?」
左利きは立ち上がり、近くの棚から手のひら大の球体を持って戻ってきた。
なにも描かれていない木製の球体、球という形を表すだけの模型。
「わかるか、これが『世界』だ」
「……? ……???」
「……いや、わからんでいいから、とにかく想像しろ」
瞳の中いっぱいに疑問符を泳がせるユカに、左利きがため息交じりに言い足した。
「我々の住んでいる大地は、これと同じような球形をしている。そして……いいか、想像しろよ。貴様と相棒はこの球体の上を旅して、一周して戻ってきたのだ」
左利きは人差し指を立てて、「この指が貴様らだ」と二人に言う。それから球体模型にその指を立てて、球い表面をぐるっとなぞる。
呪使いの指はゆっくりと球体を表から裏へと旅して、最後に元の位置へと戻った。
「わかったか、これが貴様らの旅路の真相。そして、貴様ら二人が旅と冒険によって証明した世界の真実だ」
「……え、えええぇぇぇぇ」
ユカが頓狂そのものの声で叫んで、そのまま疑問符すら失って絶句する。
「……なんか、とんでもない話だな。こいつがこんなんなっちまうのも無理ない」
混乱のあまり頭を抱えて身体を変な具合にねじっているユカを横目にリエッキは言った。
それから、彼女は指についた糖蜜を綺麗に舐め取ったあとで、左利きを見て。
「なのに、あんたは全然驚いてないみたいだな?」
「まぁな。さっきも言ったが、予想はしていたのだ」
言いながら、左利きは球体模型を帳面の隣に置いた。
「そもそも大地が球体であるとの説は古代から存在していてな」
「はん、なんだよ。そんじゃやる前から結果はわかってたってのかよ?」
わたしたちの数年間は無駄だったのかよ。
そう不満げに口走ったリエッキに、まぁそう拗ねんでくれ、と左利きが苦笑交じりになだめる。
「古い説ではあるが、呪使いの間でもまともに取り合われることのない眉唾話だったのだ。現実を無視した哲学的省察と見做され捨て置かれる、そういう類のな」
ふうん、とリエッキは相槌を打って。
「だけどその眉唾話を、あんたは信じてた?」
「そうだな。天体、地理、気象……あらゆる観測の結果が『これぞ真理なり』と主張していたからな。そうにもかかわらずこの説が顧みられなかったのはひとえに、人々の意識の底に根付いた印象と認識、それが形作る世界観に反するからだ。
だが、その迷妄もじきに晴れる。あんたとこの男の冒険譚がそれを晴らすんだ」
どうだ、これでもまだ無駄だったと拗ねるか?
そう問うてくる左利きに、リエッキはただ「はん」と鼻を鳴らすだけで応じた。
言い返す言葉など、皆目失って。
「ユカとわたしが旅立ったあの日、あの見送りの場面であんた、『これはと思う説が一つある』とか言ってたな。……そっか、これのことだったのか」
「そうだな。とはいえあのときは、まさか本当に証明して見せるなどとは思ってもいなかったのだが……」
左利きは、そこで言いかけた言葉を止める。
彼はユカを見ている。いつのまにか自分の球体模型を手に取って、間抜けと真剣を相半ばさせたような表情でそれを眺めている生涯の宿敵を。
「……いや」
呪使いはふっと笑って、中断させていた言葉を再開させた。
「……いや、少しくらいは、『あるいは』という気持ちがあったかもしれんな。この男ならやってのけるのではないかと、そんな風に、信じていたかもしれないな」
まぁ、昔のこと過ぎて忘れた。
そう誤魔化して、左利きは共犯者の笑みでリエッキに微笑みかけた。
宿敵と親友、関係性こそ異なるものの同じ一人を信じる者同士、ある意味で彼と彼女は、まさに共犯同士なのだった。
もちろん、リエッキも同じようにしようとした。
親愛なる共犯者に笑い返し、彼と笑み交わそうとした。
「……」
だが、失敗した。
「むむむ、だめだっ! やっぱり全然納得できないっ!」
リエッキが作りかけた笑顔を強張らせたのとほとんど同時に、それまで黙り込んでいたユカがようやく言葉を発した。
「なんだよ? なにがそんなに引っかかってるんだよ?」
「なにもかもだよ! だって大地が球いんだよ? そんなのおかしいよ!」
逆になんでリエッキは普通に受け入れてるの? そう問い詰めてくるユカに、わたしはこのでかい大地がどんな形してようがどっちだっていいし、とリエッキ。
この返しにユカがさらに嘆いたり喚いたりして、そんな彼の様子に、リエッキと左利きが呆れた顔を見合わせて肩をすくめる。
さっきリエッキが上手に笑えなかったことは、そうして都合良く忘れられてしまう。
誰からも。彼女以外の誰からも。
「だってさぁ、仮にこの球っころが大地だとするでしょ? だったらこっち側が朝の時は、裏側のこっちは夜ってことになっちゃわない?」
「そうだな。というかそれについては貴様のほうがよく知ってるはずだ。森渡りで遠い距離を移動したとき、時間が一転に変化していたことがあるだろう?」
「ぐえええ、あれってそういうことだったのか! えと、えと、でも、じゃあなんでこの裏側の人は下に落っこちちゃわないの?」
「大地がどんな形をしていようが大地は大地だからだ。我々の足下にあるのが大地で、我々の足は大地に立っている。いいからいったん大地を中心に物事を考えてみろ。……まったく、真理を証明した張本人が、こうもかたくなに迷妄にしがみつくとは……」
そうしてユカはなおもああだこうだと疑問を並べ立て、その一つ一つを左利きが根気よく解き明かす。
もはやおなじみとなって久しい、宿敵同士の織り成す情景。
だが、そんな二人の上に、平等に兆している変化がある。
「……」
さっき左利きに笑いかけられた時、リエッキは、彼の笑顔の中に七年分の時間の流れを見つけた。
あの森での見送りの日から七年分、彼は確かに加齢していた。
ユカと同じように歳をとれる左利きに、あの瞬間、リエッキは嫉妬を抱いたのだった。
親友の宿敵に彼女は嫉妬して、それから、自分の中の永遠に怒りと不安を覚えた。
それこそが笑顔を凍り付かせたものの正体だった。
変わるものと、変わらないもの。
そして、変われないもの。




