■10 いつか来るその日まで、旅する竜を、旅する本棚を。
「ああ、船酔いだよ。船上生活にはすっかり適応したつもりだったのに、油断してたらこれだ」
はん、ザマァないな。そう返した声はすでに普段の状態を取り戻していた。
「そういや、さっき船の兄ちゃんたちから代わる代わる声かけられたぞ」
親友の肩を借りて立ち上がりながらリエッキは言った。
「あっちで双六遊びやってんだとよ。一緒にやらないかってさ」
「あ、うん。僕も誘われたよ」
「そりゃあんたに声がかからないわけないからな。で、お誘いには乗らないのか?」
そう尋ねたリエッキに、ユカは「最初に少しだけ顔を出したんだけどね」と言って。
「でもね、抜けてきちゃった」
「なんでだよ、ああいう楽しい雰囲気は大好物のはずだろ?」
「うん、けどそこに君がいなかったからさ」
リエッキの顔すら見ないでユカはそう言った。声に特別な照れや気負いが宿ることもなかった。
当たり前すぎてもはや意識にのぼることすらない愛情。
『君がいなかったら、僕は百人と一緒にいたってひとりぼっちだ』
もうずっと昔、ずっとずっと昔に聞いた台詞が脳裏に思い起こされる。
あのとき口にされた言葉は、今でもまだ親友の中で有効なのだ。
二人に年齢の差なんてなかった頃、二人が揃って少年と少女だった頃からずっと。
変わるものと、変わらないもの。
「船酔い、大丈夫? お水持ってくる? なんなら新しく作ろっか?」
「ん、だいじょぶ。話してたら気が紛れたのか、知らないうちに楽になってた」
「そっか、ならよかった」
ユカは安心したように言ったあとで、さっきまでリエッキがそうしていたように、船縁の欄干に手をついて海を眺めはじめた。
「いやはや、見渡す限りの大海原! これはこれで絶景かな!」
「ばか、そんなに身を乗り出すな! ほんとに落っこちるぞ!」
リエッキは慌てて親友の背中を引っ張る。
ユカは決まり悪げな顔をするでもなくあっけらと彼女に笑いかけて、それから言った。
「楽しい旅だったね」
過去形で言ったユカに、そうだな、とリエッキは返す。
「そうだな。今までで一番長くて、一番楽しい旅だった」
二人は順番に『楽しくて長い旅』の中で遭遇した出来事を挙げていく。
いかさまめいて巻き込まれた砂漠の魔神騒動。白く染まった森と新たな妖精女王の誕生にまつわる奇譚。四頭の竜との出会い。
歩んできた旅の軌跡を描いて枚挙される思い出たちは、いつしかこの『最後の航海』の振り返りへと進んでいる。
渡り鳥に船での休憩を許したら仲間を呼ばれて甲板を埋め尽くされたこと。
巨大なタコを退散させる為に竜に変身したリエッキの重さで危うく船が転覆しかけたこと。
未知の大地に塞がれた進路を海獣に教えてもらった運河を通過することでなんとか突破したこと。
海岸の森からの森渡りで船員全員を骨の魔法使いの森へと招待したこと。
それから、海の幻想生物たる鯨との出会い。
「色々あったよね」
「うん、色々あったな」
旅をして、旅をし続けて、こんなに遠くまで来た。
二人が冒険旅行を繰り広げている間にも宿敵は粛々と信念を成し遂げ、その結果として呪使いの組織どころか世の中の在り方自体をも大きく変えてしまおうとしている。
彼はいつの間にか所帯持ちで、いつの間にか相棒と義理の兄弟で、いつの間にか『左利きの太守』様だ。
変わるものと、変わらないもの。
「楽しい旅だったね」
話の締めくくりに、ユカがもう一度過去形で言った。
「うん、楽しかったな」
リエッキも過去形で返事をした。
二人とも同じ予感を共有しているのだった。
もうすぐ航海は終わる。もうすぐ船は目的地にたどり着く。
ずっと目指してきた世界の果ては、もうすぐ目の前に現れる。
もうすぐ、この旅は終わる。
「ああ、楽しかった。すごく楽しかった」
声に弾みをつけて、もう一度リエッキは言った。
それから、親友の隣で同じように欄干に手をついて、同じように海を眺めた。
もうすぐ一番長かった旅が終わる。
だから、もしも今までと違う自分になるのだとしたら、そこが分岐点だ。『旅する竜』をやめる為の、おそらくは最後の機会だ。
そうとわかっていたから、彼女は隣にいる親友に笑いかけて、聞いた。
「それじゃ、次はどこに行く?」
もはや心は決まっていた。
わたしはずっと『旅する竜』でいよう、リエッキはそう決心したのだった。
守るべき場所なんていらない。
だって、守るべきものはこんなにもハッキリとしているのだから。そしていつかそれを失ってしまったとき、ただ場所だけが残ったところでいったいなんの意味がある?
盲目になろう、と彼女は思う。
あの老人、あの墓守りの竜と同じように、わたしもまた盲いになろう。
いつか来る未来なんて見ない。開き続ける年齢差も生きている時間の違いも、知ったことか。
わたしとユカはただわたしとユカでしかないんだから、余計なものからは瞳を閉ざしてしまおう。
少なくともそうしている限りは、わたしはわたしをやめずにいられるから。
「世界の果てを確かめるって以上の冒険はそうそうないだろうけどさ、それでも見るべきものは世界に満ちあふれてる。冒険の種は尽きやしない。そうだろ?」
いつかわたしがわたしでいられなくなるその日まで、わたしは『旅する竜』を、『旅する本棚』を続けよう。
「だからさ、ユカ。次はどんな場所を旅しようか?」
リエッキは親友に笑いかける。
悩みなんて最初からどこにもなかったかのような笑顔で。
そんな彼女に、親友はゆったりと「そうだなぁ」と呟いて。
それから。
「冒険は、もういいんじゃないかな」
「……もういい?」
「うん、旅とか冒険は、もう一生分楽しんだと思うんだ」
もうお腹いっぱい、とお腹をさする仕草でおどけるユカ。
そんな彼を、リエッキは唖然とした顔で凝視する。
無理もない。
親友の発した言葉は、いましもリエッキが固めた決意とまるっきりの真逆を向いたものだったのだから。
「あのね、ずっと考えてたことがあるんだ」
そうして言葉を失っている彼女に向かって、ユカは切り出した。
「旅も冒険ももう一生分楽しんだ。だからこの旅が終わったら、どこか僕たちだけの場所を見つけて、一緒にそこで暮らさない?」
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「いない……どこにもいない……」
百年後の図書館。親友が死んでしまってから百年後の。
その図書館でいま、リエッキは青ざめた顔をしている。
かたわらには心優しい彼女の家族がいて、しかしその悪魔もまた言葉と表情を失っている。
「この森のどこにも、あの子が、カルメがいない! 見つからない!」
牛頭に向かって、今にも泣き出しそうな声でリエッキは叫んだ。




