■9 わたしはわたしをやめたくない
「よっ、竜の娘さん。海なんか眺めて楽しいのか?」
物思いに耽っていると再び声をかけられた。
リエッキが振り向くと、さっきとはまた別の船乗りが彼女の後ろに立っていた。
「見張りをやってくれんのは助かるが、あんまり乗り出して海に落っこちるなよ」
そう言うと、男は自分の冗談に自分で笑いながらさっさと歩き去って行った。
船上という一種の閉鎖環境にもかかわらず、船員たちはあらゆる精神的負担から解放されている。
それは前述したユカの話術による精神衛生管理ばかりが原因ではない。
泥水などの汚れた水を綺麗な飲み水へと浄化する『天地が磨く雨の露の物語』は海水にも有効で、真水は荷物としては一滴たりとも積みこんでいないのに飲み放題の使い放題。
本来飲料水に割くべき積載量は食料を初めとした他の物資に充てることができたのでここにも大きな余裕が生まれ、さらに、そうして満載した食料や釣り上げた魚を冷やして保存しておくための手段はいくつもあった。
船旅を快適にしている諸要素の、これらはそのほんの一例だ。
他にも、たとえばユカの十八番である『一陣の疾風の物語』はいつでも好きなときに帆を満たす順風を生み出せる。
快走は約束されていて、海上での立ち往生や遭難は案ずる必要もない。
奇妙奇天烈に快適で、空前絶後に順調な航海。
こうして一切の気懸かりから解き放たれた船員たちは、今では司書王と協力して進めるこの船旅を純粋に楽しんでいた。
親友との旅を、リエッキが心からの喜びとしてきたように。
「……竜の娘さん、か」
呟いて、リエッキはため息をつく。そのあとで今度は海ではなく空を見上げた。
『旅をする竜は珍しい』
やはり思い出されるのはその言葉だった。
あの墓守の老人は言っていた。
守るべきものと守るべき場所、それが自分のすべてだと信じるために盲目に逃げ込んだ。
そうしなければ自分は自分を見失ってしまっていた。
老人の言葉はあくまでも人間の視座から発せられたものであると、それはわかっている。
しかしリエッキにとって、彼の残した言葉はあまりにも多くの示唆を孕んでいた。
「……わたしは、今のままでいいのかな」
近頃折に触れて持ち出している疑問を、もう一度自分の内側に反芻した。
わたしは今のままでいいのだろうか?
今のまま、守る場所を持たない『旅する竜』でいつづけることは、正しいことなのだろうか?
脳裏に思い出されるのはあの呪使いの言葉だった。
『変わらないものよりは変わっていくもののほうがずっと多い』、親友の宿敵はそう言った。
確かにその通りだ。これから先、世の中は今までとは比べものにならない速度で変化していくだろう。
その変わる世界を竜の身で見つめ続けるのは、この自分の心にどんな変化をもたらすのだろう?
「……!」
心に兆した不安を振り払うように、リエッキは大きく頭を振る。
それから、慌てて親友のことを考えた。
彼女は守るべき場所を持たない竜だったが、しかし守るべきものはハッキリとしていた。
もうずっとそれは変わらない。きっと死ぬまで変わらない。
しかし。
「……竜のお嬢ちゃん。……それに、竜の娘さん、か」
さっき声を掛けてきた船員たちが自分をなんと呼んだか、不意にそれを思い出す。
そして考える。
これが十年前なら、彼らは同じように自分を呼んだだろうか?
「……十年前ならきっと、『竜の姉ちゃん』って呼ばれてただろうな」
呼ばれ方の変化、すなわち他者からの視線の変化。
それはしかし、彼女が変わったことに起因するものではない。
むしろ変わらなかったことが原因だった。
自分の外見年齢に変化がなくなったと、彼女がそう気付いたのは五年ほど前のことだった。
いや、本当はもっと以前から加齢の消滅には気付いていて、しかしとうとうその事実を認めざるを得なくなったのが五年前。
親友と並ぶとそれがいっそう顕著だった。
ユカが二十歳になる頃までは同年齢に見られていたのに、そのあたりから徐々に外見年齢の差は開きはじめた。
彼女の親友は実年齢より若く見えるらしいが、それでもだ。
ユカがいよいよ三十路を迎えようとしている今、初対面で彼女と親友を対等な友人関係と見做す者は少ない。多くの者は彼女をユカの妹であると予想する。
『お嬢ちゃん』『娘さん』、そうした呼称の微妙な変化はユカとの比較の中に生まれたものだ。
『きっとドラゴンとして成熟したからだね』
親友はなんでもないことのように笑ってそう言ったが、リエッキは笑えなかった。
ずっと一緒に時間と思い出を重ねて来たのに、自分だけ置いて行かれるような気がした。
ユカの隣に立つのが憂鬱で、どこかに隠れてしまいたいと思うような日もあった。
それでも今はまだいい。今はまだ妹だ。
だけどそのうち妹が娘になり、そしていつかは孫になり、それから、そのあとは……。
「……そのあとは?」
思わず呟いた、その自分の声がまるっきり自分の声に聞こえなかった。
瞬間、世界で一番強くて優しい人がいつかこぼした、弱々しい吐露が耳に蘇る。
――私とあの子とでは、流れている時間が、生きている時間が違う。
見上げていた空がわずかに遠ざかる。それに遅れてガクンとした衝撃がやってきた。
リエッキは平衡を失ってその場に頽れていた。
意思とは無関係に力が抜けて、さっきまで身体を支えてくれていた足が無様に傾いだのだった。
(……怖い)
呼吸が乱れていた。心臓が早鐘を打っていた。口の中が乾ききっていた。
まだ先の、しかしいつか必ず来る未来への恐怖で、心に巨大な氷点が生じていた。
(怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い)
陽の当たる甲板に蹲って恐怖のもたらす極寒に震えながら、リエッキは考える。
制御を失った思考が乱れたままで彼女に考えることを強いる。
もしも、いつか、このまま。
このまま、守るべき場所を持たないままで守るべきものまで失ってしまったら、そのとき、わたしはどうなるのだろう?
ユカのおかげでわたしはわたしになれたのに、そのわたしを、わたしは見失わずにいられるのか?
「……やだ、いやだ……わたしはわたしをやめたくない……」
このわたしをやめてしまうくらいなら、死んでしまった方が百倍もましだ。
「……ユカ……たすけて……」
「どうしたの? 大丈夫?」
その時、頭上から声が降ってきた。
今の彼女に一番必要な声だった。
「びっくりしたよ、探しに来たら苦しそうに蹲ってるんだもん」
リエッキを助け起こしながら、「船酔いでもしたの?」とユカが聞いてくる。
「……ああ、船酔いだよ」
リエッキは答えた。
「船揺れになんかもうすっかり慣れたと思ってたのに、そう油断してたら気持ち悪くなっちまった」
はん、ざまぁないな。そう返した声はすでに普段の状態を取り戻していた。
親友に心配をかけまいという心が彼女から不調を拭い去ったらしかった。
あるいは、守るべき友情に傷をつけたくないという、竜の本能が。




