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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 六章 司書王

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■8.墓守りのドラゴン

●━━━━━━━━━━━━━━━━━━●



 行く手には見渡す限りの青が広がっている。

 大洋の中の大洋を、海原の先の大海原を船は進んでいる。


 世界の果てを目指す大冒険。その最後に待ち受けていたのは海の旅だった。

 この展開(なりゆき)には実のところ、リエッキも親友もまるっきり意外の念を覚えなかった。

 地図から地図をいくつもまたぎ時には地図すらない土地までもを歩き抜いた、その旅の締めくくりが足下の大地すら存在しない場所というのは、いかにも印象に適っていた。


「よう、竜のお嬢ちゃん」


 甲板に出て海を眺めていると、顔なじみの船乗りがリエッキに話しかけてきた。


「あっちで双六遊びをやってんだが、あんたも一緒にどうだい?」

「……お誘いありがとさん。けどわたしはいいよ」


 もう少しこうしていたいんだ。

 彼女がそう応じると、船乗りは気を悪くするでもなく手を振って離れていった。

 その態度はあくまでも友好的なものだった。


 リエッキと親友に対して、海の男たちはいまや全幅の信頼を寄せている。

 苦楽を共にした数ヶ月の航海と、親友が示した誠意と尽力とが彼らにそうさせていた。


 船乗り組合の反対を押し切ってまで自分の召募(よびかけ)に応じてくれた船長以下十八名に、ユカは報いられる限りに報いたのだった。

 まず第一に、命の保証のない旅に同行してくれる男たちとその家族の為に、彼は数々の冒険で築き上げた(というよりもいつの間にか築き上がっていた)財産の何割かを気前よく差し出した。

 そして第二に、過剰なほどの報酬の多寡(たか)に目を丸くしている面々に向かって、次のように宣言したのだ。


「だけどもちろん、これでみなさんの命を買い取ったとは、僕は思いません」


 なにがあろうとも、僕がみんなを死なせない――その言葉の実現の為に、ユカは持てる力のすべてを駆使した。

 出航に先駆けては物資と情報の調達に奔走し、いよいよ航海が始まったそのあとは物語の功徳にかけて人と船とを守護した。

 暴風雨(おおしけ)の甲板で命の危険も(かえり)みず魔法(ものがたり)を譚り続けるユカの姿に、屈強な海の男たちが涙ながらに黙礼を捧げていたあの光景を、リエッキは今もまざまざと思い出せる。


 そうして繰り広げられたのは、実に奇妙奇天烈、空前絶後の航海だった。


 しかし。

 しかしいま、波間を眺めるリエッキの心を占めているのは、別の記憶だった。

 海への出航(たびだち)から遡ること三ヶ月前、最後の竜との出会いにまつわる記憶(それ)である。




   ※



 竜はいかにしてこの世に発生するのか。

 それには諸説があり、そしておそらくはその数多(あまた)ある説のいずれもが正しいのだと、ユカとリエッキはそう信じていた。


 信じるようになっていた。四頭の竜との出会いを経て。


 人里で人間社会の一員として暮らす一番目の竜は卵から生まれたらしく、彼女の宿屋にはかつて自ら破った殻のその破片が装飾の一つとして飾られていた。

 千年もの時間を巨岩に擬態して生きる二番目の竜は万年の昔に小さな亀として誕生し、長い時間を生き抜くうちにいつのまにか竜へと生まれ変わっていたのだという。

 大河の水源に住まう三番目の龍蛇(おろち)は、人間たちの信仰心が概念としてのみ存在していた水の守り神に姿を与えた存在だった。


 そして、最後の四番目の竜は、元人間。

 ユカとリエッキは、彼が竜へと転変(てんぺん)するその場面に立ち会ったのだ。



 



 夏の季節だった。ふたりは切り立った断崖と森に挟まれた道を進んでいた。

 旅人の交通も途絶えて久しい、うち捨てられた廃道。

 片側からは際限なく枝葉が生い茂り、かつての往来の痕跡はそのあらかたが緑の領域へと沈んでいた。


 そんな道とも呼べぬ道の(ほとり)に、ある時、不意打ちのように人家が現れたのだ。


 家の前庭には墓があった。ただ一基だけで家それ自体よりも存在感のある墓。

 家に墓が付属しているのではなく、墓に家が付属しているという印象がそこには漂っていた。


 もちろん二人はその家の戸を叩いた。そうするのが自然であるかのように。


「……なんと、こんな日に旅人さんがいらっしゃるとは……」


 家には老人が一人で暮らしていた。なんの変哲もない、どこにでもいそうな老爺。

 しかし、その老人はリエッキを一目見るなり、挨拶すら省略して言ったのだ。


「……しかもお嬢さんは、竜ですか。……旅をする竜とは、珍しい」


 開口一番の看破(かんぱ)に二人は揃ってぎょっとしたが、驚いているのは言い当てた本人も同じらしかった。

 なんで私は、と老いた声で彼は呟く。なんで私にそんなことがわかるんだろう? なんでそんな風に感じるのだろう?


「……爺さんあんた、人じゃないものになりかけてるぞ」


 そう老人に告げたのは、他ならぬリエッキだった。

 老人の発する気配には覚えがあった。この時点ですでに三回、彼女はその気配の持ち主と相対していた。


「あんた、竜になりかけてるんだ。わたしが竜だってこと、だから見抜けたんだ」


 リエッキの眼差しは迫真そのもので、だからだろう、老人は彼女の言葉を少しも疑わなかった。

 老人はなにかを確認するかのように三度ほど肯き、そのあとで、ユカとリエッキを家の前にある墓のところに連れ出した。


「私はね、どうやら今日死ぬらしいんですよ」


 そんな日にあなたたちがいらっしゃったのは、これも運命でしょうか。


「ああ、どうかそんな顔をならさないで。人間は生まれたら必ず死ぬものです。だから、それは全然構わないんです。私自身、死はとっくに受け入れているんです」


 絶句している二人に対して、老人はそう鷹揚に笑いかけた。

 しかしそのあとで、彼は一転して否定的な声音となって「ですが」と続ける。


「……ですが、心残りは、どうしたってある」


 老人は墓石に身を寄せ、重い息を押し出すようにして自分の人生を語りはじめた。





 この場所からほど近い場所にかつて存在した集落、老人はその村の出身だった。 

 森と山とに生計たつきを求める生活を代々続ける一族。彼自身も生まれる前から生き方が定められていたが、それについて不満を抱くことはなかった。

 自分と夫婦になる相手もまた、双方の親によって物心ついた頃にはすでに決められていて、それも受け入れていた。


 いや、そこにあったのは、けして消極的な受忍ばかりではなかった。

 自分で選んだ相手ではなくとも、彼はその一歳年下の少女を、はじめて引き合わされたその日から『この自分が守ってあげたい』と望み続けた。

 幼い恋だったが、それは確かに恋だったのだ。

 だから、適齢を迎えて晴れて彼女を妻に迎えた時には、人生の絶頂を感じた。

 これからは俺が守っていくぞ、若い彼はそう思った。

 末永く守っていくぞと、そう誓った。


 事実、そこが絶頂だった。これ以降、彼の人生は長くて深い奈落に沈む。


 森での採集と伐採を終えて帰宅した若者が妻の死体と対面したのは、ある秋の日だった。持病はなかったが数日前から妙に息苦しいことがあると言っていた、それが唯一の前兆だった。

 結婚から一年経つか経たないかという頃、まだ子供もいなかった。


 守ってあげたいと願って、守っていくのだと誓った、その対象を彼はあっさりと失ってしまった。

 失って、なのに恨めるような相手もいなかった。突然の死ではあったが、妻の死はあくまでも自然死だったのだから。


 失って、(うしな)って、耽溺(たんでき)すべき憎悪すら与えらなかった彼は、結果として守ることに取り憑かれた。

 守りたいと願って誓った妻はもういなかったが、幸か不幸かその妻の墓だけは残された。

 彼はそれを守ることに執着した。後添いももらわず、他者との交流も徐々に絶ち、ただ墓守という役目にしがみつき続けた。


 しがみついて生きた。数十年、しがみつくことによってどうにか生きた。





「私は、もうすぐ死にます。……死ぬのだと、思っていたのだが……」


 己の人生を語り終えたあとで、老人はうなだれていた顔をあげた。

 再び二人に向けられた表情には、なにか納得がいったというような得心の相があった。


「死ねばこの虚しい人生から解放されると、正直に白状すれば、そう考えたことが何度もありました。だけどいざ死が近づいてみると、私が居なくなった後の妻のことが、気がかりで気がかりで。……きっと、その心残りこそが私を……」


 そこで老人はリエッキ一人に視線を注いで、続けた。


「お嬢さん、教えてくれてありがとう。そうか、私は竜になるのか。竜になって、これからも妻を、妻の墓を守り続けるのか。……そうか、そうか」


 老人は泣いていた。彼は静かに涙を流す。

 その涙がどのような感情の発露であるのか、それを推しはかることがリエッキにはできない。


「……」


 その問いかけを発すべきか、発してもいいのか、リエッキは迷っていた。

 さっき初対面で彼女の正体を見抜いた老人は、同時に『旅をする竜は珍しい』とも言った。

 それはこれまでに出会った三頭の竜が揃って口にした言葉だった。


 なぜそんな風に感じたのか、その言葉の真意を老人に問うてみたかった。

 厳密には彼はまだ竜ではなかったけれど、しかしだからこそ、他の竜たちからは得られなかった答えがこの老人からなら得られるのではないかと、そんな期待があった。

 自分以外の竜との出会いを重ねる中で育ち続けていた内省的疑問に、なんらかのケリがつけられるのではないかと。


 しかし同時に、いま人としての終わりを迎えようとしている老人の時間を、自分の為の問いかけで乱してしまうことに、ひどく抵抗を感じてもいた。

 いまこの瞬間は彼のものだ、リエッキはそう感じていた。

 隅々(すみずみ)まで彼のものであるべきだ、と。


「……」


 そうして、リエッキが取るべき態度を決めかねていると。


「……私はずっと妻を守って生きてきました」


 長い沈黙の末に、老人が、問わず語りに語りはじめたのだ。


「それが私の人生でした。妻を、妻の墓を、墓のあるこの場所を守ることが」


 老人の目に涙はもうなかった。

 代わりに、そこには混濁した意識の生み出す譫妄(せんもう)的な光が宿っていた。


 その時がやってきたのだ。リエッキはそう理解した。


「生きる為に山には入りましたが、それを除けばこの場所が私のすべてでした。こんな自分を案じてくれる縁者や友人も遠ざけて、集落が消えたと知った時にもなにも思わなかった。守るべきものと守るべき場所、その他はこの世にないのと同じだった」


 老人の語る言葉に、リエッキは傾けられる限りに耳を傾ける。

 終わりに臨む者の独白を、一言も聞き逃すまいとして。


「……いや、本当は、わざとそう思い込もうとしたんです。自分にはこれがすべてなのだと、これ以外の世界など自分には存在しないのだと、意図して(めしい)になろうとした。

 そうしなければきっと、私は私が誰なのかさえ見失ってしまっていた」


 そこで言葉は終わった。

 老人は立ったまま、死んだように動かなくなった。


 結局、質問はできなかった。しかしリエッキにはこれで十分だった。

 竜のように生きてその生き様によって実際に竜になろうとしている人間の独白は、限定された質問では到底引き出せなかった答えをもたらしてくれたと、そんな気がしていた。


 そのとき急に、二人の目の前で、老人の身体が激しい痙攣をはじめた。


 それから老人は、人間の身体のまま、凄まじい竜の咆哮をあげたのだった。

 その咆哮は新たな竜の呱々(ここ)の声であると同時に、人としての彼の断末魔だった。


「……」


 (たけ)り声がやんだ時、老人の姿は消えて、二人の目の前には黒い竜が現れていた。

 墓守りの竜は二人を一瞥した後で、言葉は一言も発さないまま、『もう行け』というように小さく首を振った。


 二人は言われた通りにした。同じように無言のまま、さよならさえ口にしなかった。



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― 新着の感想 ―
[良い点] そうか、もう守るべきものを見付けていて、それが旅をするものだったから。
[一言] 久しぶりの更新、とても嬉しいです。 旅する竜は珍しい。竜は何かに憑き憑かれ、それを守る為にそこに有り続けるものだから。動くものは定命を持つものばかりだから。竜からみれば長い長い時間の中で、…
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