■7 火のように悲しい竜がいて
リエッキに開花した保護者としての能力、その対象はカルメにのみ限られていたが、しかし図書館の建物内においてならばその限定は無効だった。
図書館の番人は館内に存在するすべての気配を探り当てることができる。それが彼女の本来の能力だった。
気配のある方向に向かうと、牛頭は書架から書架を移動してなにかを探していた。
「ああ、リエッキさん」
リエッキに気づいた牛頭が視線を寄越す。
「いえね、実は本を探してるんですよ。雲をまとって世界の空を漂っているという神秘の浮遊島、その伝説を記した本を。最近絵本で呼んだらしくカルメが興味津々なんですよ。しかし、これだけの蔵書から目的の一冊を探し出すのは、いつもながら大変な苦労です」
どのへんにあるかわかります? そう尋ねる牛頭に、知らん、とリエッキは答える。
「わたしは番人であって司書じゃないからな。本のことはさっぱりだ」
「ですよねえ。仕方ない、引き続き自分で探すとします。それもまた楽し、です」
そう言って探し物に戻ろうとする牛頭に「本の在処はわからないけど」とリエッキ。
「なぁ、内緒話してやろうか?」
「なんです? なんです?」
「聞いて驚けよ。その島な、何を隠そうあいつのやらかしの産物なんだよ」
そして彼女は語りはじめる。
とっておきの内緒話を、今まで誰にも話す機会のなかった、天空の島の誕生にまつわる秘密の物語を。
現代においては世界の七不思議にも数えられているその島が、実は信じられないほどくだらない経緯から生まれたのだという事実をリエッキは明かした。
語り部の空想と呪使いのうっかり、これは彼女の親友とその宿敵が仲良くやらかした失敗の結末、宿敵同士が共犯となった罪の証なのだと。
当事者二人の他にはリエッキだけしか知らない裏事情とそこからはじまるてんやわんやの数々に、語り手のリエッキも聴き手の牛頭も腹を抱えて爆笑した。
そうしてひとしきり笑ったあとで、リエッキは牛頭に切り出した。
「あのさ……実は、あんたを探してたんだ」
少し話してもいいか?
そう申し出た彼女に、もちろん、と優しい悪魔は応じて、その場に腰を下ろした。
ありがとうと返して、リエッキも同じように座った。
悪魔と竜、ふたり揃って柱に背を預ける。
「……あんたの言うとおりだよ」
数秒の沈黙の後で、わずかに逡巡しつつリエッキは言った。
「最近、あいつの夢を見ても、前みたいに悲しくないんだ。昔のことを思い出しても、その後で死んでしまいたくなったりはしなくなった。あんたやあの子があいつとの思い出話を聞いてくれるのが、わたしは、ただ純粋に嬉しい」
「はい」
「だけどこれもあんたの言うとおり、わたしはそのことに焦りを感じてもいる」
深刻な告白をするようにリエッキ。
牛頭は短く、しかし慎重に相づちを打つ。
「怖いんだ、あいつの存在が自分の中から薄れちまうのが。あいつのことを今でもこんなに大切に想ってるのに、なのにわたしは、だんだん『大丈夫』になっちまう。そんな自分が時折たまらなく薄情に感じられて、慌ててあいつの面影を思い描くんだ。なんとか悲しい気分になろうとして、わざと悲しいことを考えたりもする」
だけど、とリエッキは続ける。
だけど、どうにもならないんだ。
「あの子がわたしに似てくるってあんたに言われて、なんだか得意な気分だった。蜂蜜とか鮭とか、あの子がわたしの好物を美味しいって食べる時、理由もなく嬉しくなるんだ。あの子がわたしの真似っこをするのがわたしは、実は全然嫌じゃない」
「大丈夫」
あたかも慰撫の声で、牛頭。
「大丈夫。ちゃんとわかってますよ」
「あの子が『はん』って鼻を鳴らしてさ、それに対してあんたが仕方ないなぁって困った顔をして……そういう時、わたしの中の悲しみは、みんなどこかに隠れちまう」
こんな日がくるなんて、以前のリエッキには想像さえ不可能だった。
わたしは二度とは覆せない結末のその先を生きているのだと彼女は感じていた。
そこは後日談さえ生じ得ない絶対の虚無で、その暗黒の中でわたしは少しずつ自分を損なっていくのだと。
誰かと親密ななにかを分かち合うことなんて、もはや永久にありはしないのだと。
しかし、現実はどうだろう。
家族と過ごす日々に、彼女は幸せとしか名付けられない充足を感じている。
永久に癒やされぬはずだった痛みは、確かに癒やされている。
そして、あれほど身を焼き心を焦がされた悲しみが薄れて消えてしまうことにいま、恐怖すら感じている。
悲しみを失ってしまうことが、火のように悲しい。
「……ずっと前にあんたが言ったことを、いまになって実感してるよ」
そう牛頭に言ったあとで、リエッキは数年前に彼が口にした言葉を蘇らせる。
泣いていた彼女にこの悪魔が告げた台詞。細部まではうろ覚えで、でも忘れてはいない。
――悲しいと感じるのは、弱さではないんですよ。その悲しみは、あなたが彼と一緒にいたことの証明なんです。その悲しみを失ったらきっと、あなたは今よりももっと深い喪失を抱くことになる。それは価値のある、意味のある悲しみなんです。
出し抜けに自分の台詞を引用されて、牛頭が柄にもなく照れたような顔をする。
そんな家族をこちらも柄にもなく茶化して、そのあとでリエッキは続けた。
「あんたの言葉が、ようやくわかった。あの悲しみには確かに価値があったんだ。あの悲しみはもういないあいつとの縁で、わたしはその大切な悲しみを失いつつある。
だけど、やっぱりどうにもならないんだ。どうにもならないほどに、どうしようもないほどに、わたしはいまここにあるこの現実が愛おしい」
あと少しで泣き出してしまいそうな声で、リエッキは現在の幸せを吐露した。
リエッキの言葉を受け止めた牛頭は、その言葉を彼女自身もまたしっかりと受け止められるまで待った。
優しく包み込むような沈黙。
そのあとで悪魔は言った。
「リエッキさんの中に、悲しみはまだありますか?」
この状況での、再びの問いかけ。
予想外の言葉の登場にリエッキの視線があがる。
そんな彼女の瞳をまっすぐに見つめ返して、牛頭は言った。
「もしも不安になった時は、そう問いかけてみてください。自分自身に対して、『わたしの中に悲しみはまだあるのか?』って。そうしたら、たとえ一時的に見失ってしまうことがあったとしても、少なくとも忘れてしまったりはしないでしょう?」
そう言ったあとで牛頭は、でもなくなりゃしないと思いますけどね、と続けた。
「だってそれがあの方とリエッキさんの縁なら、なくなるなんてあり得ないでしょ?」
当然とばかりに言い切って、牛頭はリエッキに向かって片目を瞑ってみせた。
リエッキは少しだけぽかんとして、しかしそのあとで、うん、とはっきり肯いた。
うん、そうだな、と。
牛頭に向かって、現在の幸せの一部である彼に向かって。
根本的な解決ではないのかもしれない。
だけど、とりあえず今はこれでいいかとリエッキは思った。
きっとこの悩みには、答えも結論も簡単には出ないだろうから。
だからいつか答えが得られる日までは、繰り返し自分に問いかけ続けよう。
※
こうしてお悩み相談の時間は終わって、そこから先はいつもと同じようにカルメの話題が大半を占めるようになった。
リエッキはあの図書館見物の長旅について牛頭に礼を告げた。
いかにカルメに甘い牛頭といえどわがままのすべてを聞き届けるわけではない。
それなのにかなりの無理をしてまで今回の願いを叶えてやったのは、図書館の番人になるというカルメの夢がまだ有効であり、そのことをリエッキが密かな喜びとしていると、そう見抜いていたからだ。
面と向かってお礼を言われた牛頭は照れを隠すように微笑んで、「よその図書館には番人もドラゴンもいないって文句たらたらでしたよ」と証言した。
保護者たちは再び声をあげて笑い合った。
「さて、そのカルメはどこにいるのでしょうね。リエッキさん、お願いします」
「うん」
牛頭に促されて、リエッキはいつものように集中する。
図書館の内側から外側に向かって意識を拡げ、近いところから遠いところへ、最後には森全体に網を張り巡らせる。
そうしてカルメの気配を探って、少女の存在を探して、探し求めて。
そして。
「……いない」
信じられない思いと共に、牛頭に結論を伝えた。
「見つからない。この森のどこにも、あの子がいない」




