■6 故郷の森に訪れた二つの別れ、そして例外的な五番目の竜
「あなたたちったら最近はめっきり帰ってこなくなっちゃって、母様さみしいわ」
「そんなことないよ。何ヶ月かに一回は帰ってきてるでしょ?」
「前は何週間に一回だったでしょう? その前は何日かに一回、もっと前は毎日のように……まったくもう、そんなに旅が楽しいのかしら?」
母様のことなんて忘れちゃうくらいに?
そう笑顔でいじめてくる骨の魔法使いに、ユカは誤魔化すように笑って、リエッキは困り果てて頬をかいた。
世界を目指す旅もどうやらそろそろ佳境らしい。
二人がこのほどぶち当たったのは見晴るかすばかりの大海原で、船乗りたちの語るに曰くこの海には果てがないとのこと。
その果てのない海の果てを目指してくれる船乗りを探してユカは交渉に交渉を重ね、ようやく契約を取り付けたのが遡ること二日前。
ここから先にはしばらく森などなかろう、いや、大地そのものがないのだ――とそういうわけで、この日は二人、船出の前の最後の里帰りをしていたのであった。
これが今生の別れになるとは、その場にいた三人のうちの誰一人として考えてはいなかった。
きっとまた無事に帰ってくるし帰ってこれると全員がそう考えていて、しかしそれでも談笑には不思議な熱が籠もった。
これまでの旅の集大成とばかりに、ユカとリエッキは思い出をすみずみまでほじくり返して語り、骨の魔法使いは二人の口にする一語一語に傾聴した。
たとえば念願だった火を吹く地面の村の見聞録。
実際にそこまで行ってみてわかったのは、地面の穴から出ているのは火そのものではなく、可燃性の空気だということ。
村の人々はこの火をけっして絶やさぬよう見張りを立てていたのだけれど、そこにあったのは宗教的な理由ばかりではなかった。
なんでも燃える空気は人の体には有害で、火が消えてしまうとその毒気が村人に害をなすから燃やし続けるしかないのだという。
それから、大樹のてっぺんに巣を作る特殊な蜂の特殊な蜂蜜にまつわる冒険譚。
平原のド真ん中にただ一本だけ不自然に背を伸ばした大樹の、その麓の町でのこと。挑戦者の絶えて久しい命がけの蜂蜜採取の逸話と、その蜂蜜を伝来の濁酒で割った蜂蜜酒は気絶するほど美味いらしいとの伝説を二人は聞いた。
かくしてリエッキの夢を叶えてあげるため、ユカは一世一代の木登りに挑むことになったのだった。
他にも、冬眠する熊に添い寝する乙女の話、木製の月の話、砂漠の魔神騒動の話。
それに、四頭の竜にまつわる物語も。
骨の魔法使いはうんうんと相づちを打ちながらそれを聞いてくれた。
聴き手はこの母ひとりだけだった。
ここにはもう彼女しかいなかった。
色の魔法使いの一家が旅立ってから、すでに二年が過ぎようとしている。
成長するのに伴い、双子たちはそれぞれ両親と同じ道を歩みたいと夢見るようになっていた。
双子の男の子は母親の歩んだ踊りの道を、女の子は父親の極めた色彩の道を。
それを聞いた骨の魔法使いは、ある日のこと、半ば追い出すような形で家族を森から巣立たせたのだった。
娘夫婦の心を、この自分を置いて行くことに踏み切れずにいる踊り子と膚絵師の優しさを知っていて、だからこそあえて厳しい態度を示したのである。
かつて少年の日のユカにそうしたのと同じように。
――夢を見てそれを目指すには、この森はこんなにも広いのに、こんなにも狭い。
もちろん、彼女の愛情は一家にきちんと伝わっている。誤解なんて少しもされずに。
ところで、森から姿を消したのは色の魔法使いの家族だけではなかった。
「……ねえ母さん。僕、なんだかまだ信じられないよ」
話が小休止を迎えたときにユカが言った。
何気ない調子を装いながらも本当はいつそれを切り出すか、ユカがその時宜をずっと伺っていたことにリエッキは気づいていた。
「本当に、信じられないよ……猫おばさんがもういないだなんて」
骨の魔法使いの毛深い妹。ユカの叔母であり、捨て子であった彼を拾い上げた張本人である山猫。
彼女が亡くなったことを、二人はこの日はじめて伝えられたのだった。
息子の気遣いに母は微笑みで返し、しかし、その微笑にはすぐに寂しさが兆した。
「こうなることはわかってたのよ。あの子、この何年かは足腰もあんまり立たなくなってたし。だからね、覚悟はできてたの。別れには、ちゃんと備えられてた」
「……うん」
「わかってたのよ。同じ親に育てられた姉妹といっても、私は人間であの子は猫。だから私とあの子とでは、流れている時間が、生きている時間が違うんだって」
わかってたのよ、と。骨の魔法使いは何度もその言葉を繰り返した。
いつかこうなることはわかってたのよ、と。
まるで自分に言い聞かせるみたいに。
そして、何度目かのわかってたのよのあとで、だけど、と言った。
「だけど、やっぱり、だめよね。妹がお姉ちゃんよりも先に逝くなんて」
ユカは何も言わなかった。リエッキも何も言わなかった。
何も言えないまま、リエッキは骨の魔法使いを見つめる。
眼差しをそそぐ。
はじめてわたしがこの森を訪れたときから、もう十年になる。
あのときこの人を乗せて現れた、あの猫はもうこの世のどこにもいないんだ。
あのとき猫に乗って現れたこの人は、眼差しと笑顔でわたしを歓迎してくれたこの人は、なんだかあのときよりも小さくなってしまった気がする。
十年分の時間、十年分の変化。
それをいま噛みしめながら、リエッキは思う。
いくつもの変化と別れを見送りながら、それでもこれから先もずっとこの森を守り続けていくのであろうこの人は、まるで……。
「ごめんね、せっかくあなたたちが帰ってきてくれたのに、くよくよしちゃって」
そのとき、さっきまでとは打って変わって明るい声で骨の魔法使いが言った。
「さ、母の味もしばらく食べ納めでしょう? 今日は腕によりをかけちゃうわよ」
そう元気に、屈強なまでの空元気で宣言して、骨の魔法使いは手を叩いて立ち上がった。
その瞬間に彼女が素早く目元を拭ったのを、リエッキは見逃さなかった。
厨房に向かう直前、骨の魔法使いは不意にリエッキに視線を寄越した。
「そうよ。私はずっとこの森にいる。ずっとこの森を守り続ける」
まるっきり心を読まれたみたいだった。
滑稽なほど狼狽えるリエッキの反応に、骨の魔法使いがようやく作り物でない笑顔を取り戻した。
そのあとで、彼女はリエッキと、それとすっかり状況の仲間はずれになっているユカに向かって言った。
「母様はずっとここにいます。だってここは、あなたたちが帰ってくる場所ですもの。いつかあなたたちが自分の場所を作るまで、ここがあなたたちの家なんだから」
もしも誰かに、とリエッキは思う。
もしも誰かに『この世で最も強い存在』と『この世で最も優しい存在』を答えろと言われたら、わたしは迷いなく同じ名前を挙げるだろう。
この答えはもうずっと変わっていない。具体的には十年前から。
――この人はまるでドラゴンだ。わたしなんかよりも、よっぽど。
さっき心に浮かんだ考えは、きっと間違ってない。
母親とはたぶん、竜なのだ。
だけど、じゃあ、わたしは?
わたしは今のままでいいのだろうか?




