35.【第二図書室】和解◆ネクラ
空は青かった。
ずっと続けていた友情や恋愛、秘密の関係があっけなく壊れた後も、空は何も変わらずそこにあった。
姿形の無かったものに、絵がついたのに、そのせいで元の形が消えてしまった。
でも、消えたわけではなく、もともとその形であったものを誤解していただけだ。
長く続けていた思考も、ようやく行き止まりまで辿りついた。この先は相手のあることだから、ひとりで結論をだすことはできない。
だからもう俺にすることはない。ぼんやりするばかりだった。
窓の外に視線をやっていたけれど、べつに何も見ていなかったし、周りの音だって聞こえていなかった。窓枠に頬杖をついた俺は、何も考えていなかった。
そうしていると突然柔らかな感触が背中に張り付いて硬直する。
くすくす笑うような声がして、誰だかわかる。
「ひ、ひりあちゃん?」
思わずそちらで呼んでから、てことは西園寺さんじゃないかと青くなる。
「こうやって、顔も見なければ、やっぱりネクラ君だね……」
西園寺さんはそう言ってますます力を込めて抱きしめてくる。
「え、でも俺佐倉だけど」
「でも、ネクラ君だよね?」
「うん。そ、それはいいんだけど、この体勢は……」
「悪い? だってわたしずっとネクラ君に触ってみたかったんだよね……なんかこう、実在してる感じがする……」
「っ、でもっ……」
「わたしっ! なんだかんだいって、いまだにネクラ君のこと好きなんだよね……」
かぶせるように言われた前半部分とちがって、後半はえらくゆっくりと落ち着いた声音だった。
ほんの少し間があって、もっと小さな、どこか自信のない声で「……ネクラ君は?」と問われる。
俺は当たり前に答えを知っている。
長い思考の果てに辿り着いた答えは、やっぱり最初と変わらなかった。そのことに安心もした。
自分にとって都合の良い部分を抜いた彼女のことを、俺はやっぱり好きだと思った。
それに、俺が認められる理由として必要とした“不完全さ”が彼女になくても、あの時俺を受け入れてくれた事実は、変わらない。
「俺も……」
それだけやっと言って息を吐くと、背後でも詰めていた息を吐く音がした。
どちらもが会話のボールを受けようとしたような沈黙があった。彼女が、俺の言葉に先が無いことに気付き、口を開く。
「俺も……の続きは?」
背伸びしているのだろうか、耳たぶに湿った息がかかるくらいの近さで、声が耳に吹き込まれる。
「お、れも……」
思考が停止して、言葉はいつまで経ってもそこから進まなかった。背中にあたる体温と、耳をほんの少しくすぐる髪とその香り、息の感触、そんなもののせいで油断すると何を言おうとしていたのかすら忘れそうになる。
「とりあえずいったん離れて……」
「えー、わたし達一応両思いなんだからよくない?」
「そういう問題じゃない……」
「やだ」
「ひ、ひりあちゃん……」
ひりあちゃんは抱きつく腕を緩めないどころか、甘えるようにさらに身を寄せた。だから身体はぴったりと、ゼロセンチメートルの距離のまま。俺の手はさっきからずっと、そこに固定されているかのようにガッチリと窓枠を掴んで何かに耐えていた。
後ろからまたくすくす声が聞こえる。
「もう、ひりあちゃんじゃないなー」
「え、西園寺さん? そっちで呼ぶと余計緊張するんだけど」
「うん、じゃあ、間をとって……」
「あ、間って?」
「ひりあにちなんで、ゆりあちゃん、はどうかなぁ」
「……」
「ネクラ君。呼んでみて、呼んでみて」
「ひ」が「ゆ」に変わるだけだというのに、なんだこの緊張は。
「ゆ、……り、あちゃ、……ン」
「なんか呪いの人形に呼ばれてるみたい……ぶふーっ」
西園寺さんは俺の背中に顔をつけて爆笑した。俺を捕まえる腕はそのままなので、一緒にカタカタ揺らされた。顔が見えないのもあるけれど、その笑い上戸な感じはすごく、ひりあちゃんだった。
「お、っ、俺は?」
「ネクラ君にちなむと、佐倉君だね」
「……」
「あれ? 不満?」
「なんか、ズルくないかな……」
「そうかなぁ。じゃあ……総士君!」
「……ッ、ゴ、李ガブ、っ具ふぉ」
「わ、どうしたの、漢字まじってるよ」
自分で不満を表明したくせに、その後の衝撃に無警戒だった。ちょっと想像すればわかることなのに。アホか! 俺!
「俺は……佐倉とかネクラとか粗大ゴミ太郎とかでいい……です」
「佐倉君、ほんとにネクラ君なんだねぇ」
すぐにくすくす笑うその感じはものすごく馴染み深い。
「ひりあちゃんも……本当に西園寺さんだったんだね……」
「うん。ねえ、顔が見えないと、結構前の感覚つかめるね!」
確かに声だけだと、そこにいるのはやっぱりひりあちゃんでしかない気がしてくる。
「そうかも……」
「これからはいつもこうやって話そっか!」
「理ギォっ市ュ!」
絶対無理!
思わず窓ガラスに頭をガン、と打ち付けた。
「わ、大丈夫?」
正気を取り戻すには足りなかったので、さらにゴン、ゴン、と打つ。
「ネクラ君?」
うっかり呼び名が戻っていてよかった。
もし今真名のほうで呼ばれていたらガラスが割れていた。そして割れたガラスから意識が抜けて成仏していた。
「ね……顔見て話す?」
顔を見たら見たで、緊張するのは分かりきっている。
「……いい」
「……じゃあこのまま話そ」
「エ゛ッ……このまま?」
わかってやっているのだろう「いしし」と悪い笑い声が聞こえた。そして、いつものように自分の笑いに誘発されてまた笑う。
ひとしきり笑い終えた彼女がふうと息を吐く。
「わたしね、今までずっと、周りにわかってもらおうとしてこなかったんだ。わたしはわたしなのに、勝手に誤解するほうが悪いって」
「……うん」
「だから、わたしはもう少し、自分から人に話して、本当はこんな人だよって、見せていこうと思うんだ」
「うん」
「佐倉君は、イメージを崩すのが怖いんでしょ」
「うん」
「じゃあ、一緒にぶち壊さない? そしたらすごい楽になるよ」
「どうやって?」
「あのね……」
唇が耳にあたるくらい近くで、ごにょごにょと可愛い囁き声を吹き込まれて、意識が揺らいだ。うわ、いま唇が、耳たぶに0.2秒くらいの間1ミリくらい当たった気がする。
「……どうかな」
「ごめん、体勢のせいで全く頭に入ってこなかった」
彼女が「しょうがないなあ」と言ったので、ようやくこの甘い拷問が終わるかと期待していると、また、同じような位置でごにょごにょと息をかけてくる。
だから、何度やってもそれじゃ脳に言語が届かないというのに。そもそも二人しかいないこの小部屋で、囁く必要はまったくない。
ちょっと不満げな「むー」という唸りと共に、ようやく身体が腕から解放された。
「えーと、だからあ、手を繋いで教室帰ろって言ったの」
くらり、身体が揺れて床に落ちた。スローモーションのように、天井が遠くなる。
頭上にごいーん、ごいぃーんと耳鳴りのような音がして、それが昼休みの終わりを告げるチャイムだと、意識の端で気付いた。
「ごめん……むり。先に帰って……」
やっとの思いでそれだけ言うと、目の前に西園寺さんがしゃがみこむ。
「うーん、駄目だねえ、総士君」
「西園寺さんはわかってない……」
佐倉総士もネクラも、標準的ないやらしい男子高校生ではあったが、その点については二人揃って全力で隠していた。そこに無理解な美少女は、暴力的ですらある。
「わかってないなら、教えてよ」
「むり」
「わたしが期待するのは、佐倉君とネクラ君の、ありのままだよ」
なんと言われようともこの部分をさらけ出したらどうせ殴られる気しかしない。無理。この人絶対そっち方面免疫ないし。
西園寺さんは立ち上がって、うーんと伸びをした。
「今日はここで諦めるけど、このままですまされると思うなよ!」
西園寺さんは悪者みたいな台詞を可愛い声で吐いて、くすくす笑って扉を出た。
俺、なんかとんでもない子好きになった気がするけど、気のせいかな。
気のせいだといいな。




