31.【第二図書室】発覚◆ネクラ
キシ、と床が小さく軋む音がして、顔をあげると、西園寺さんが目の前に立って、ぼんやりこちらを見ていた。
ひりあちゃんと話していたはずなのに、いつの間に入ってきたんだろうか。
でも、彼女はさっきひりあちゃんの声で「ネクラ君」と俺を呼んだ。
現実的な答えがじわじわと、上にあがってくる。嘘だろ、と思う。
でもこれは、たぶんそういうことなのだろう。
表層ではわかっているのに、理解できない。何故だか理解してはいけないもののような気がして、しばらくそこで思考がフリーズしていた。
どれくらいの時間そこで黙って向かい合っていたのかはわからない。ふたりとも無言で、まるで、人間じゃないものを見るみたいな目で遠慮を忘れて夢中で見つめ合っていた。
いくら考えても、時間が経過しても、現実感がやってくることはなかった。
やがて、西園寺さんの形の良い小さな唇が震えるように動いて、音を発する。
「嘘つき……」
「えっ……」
「友達いないとか、モテないとか嘘ついて、なにがしたかったの?」
「嘘なんて……」
「だって佐倉君はいるじゃん友達! それに、女の子とだって、話してるし……なんなの?」
「……」
「も、もしかして、わたしだって知っててからかってたの? わたしが、友達いないからって……」
「れ、冷静に今までのこと考えてよ。知ってたら……」
「うるさい! うるさい! ひどいよ!」
興奮して頭に血が昇っている。なだめたいところだけれど、自分もまだ現実を認められなくて、負けず劣らずのパニック状態だった。
「嘘だ……嫌だ!」
ぽろぽろと涙をこぼされながらそう言われて、胸がしくりと痛んだ。
「酷い……なんでそんな……」
西園寺さんは腕で無造作に涙を拭った。
泣いたまま、フラフラと本棚の向こう側に戻っていく。そして、呆然としているうちに扉の閉じる小さな音が聞こえた。それでも、やっぱり動けない。
部屋が静寂に満ちた。ひとり、そこに残される。さっきまで、ひりあちゃんは俺と笑いながら話していた。それが一瞬で失われたことが、まだ受け入れられない。
彼女はどうして突然こちらに来たんだろう。
西園寺さんが、ひりあちゃん。
唐突に現れた事実に意識がついていけない。
西園寺さんが、ひりあちゃん。
何度唱えてもしっくりこない。
正直、それだけはないと思っていた。かなり早い段階で、当たり前に可能性を除外していた。
もし、西園寺さんが第二図書室に入っていくところを見たとしても、俺はひりあちゃんだとは思わなかった。何か用事があるのかなと思っただろう。
似てると思った声は、改めて聞くとそのままのようにも思えた。ただ、俺に話す西園寺さんと、ネクラに話すひりあちゃんは声の温度がちがったし、何よりよく笑った。氷の姫なんてあだ名が絶対に似つかわしくないくらいに。
頭の中で、今までのいろんな出来事が錯綜する。
似ている声。ゴリラのメモ帳。夏休み明けに連絡が取れなくなった相手。他のクラスの友達。
今思えば、一致するようなことはいくつかあった。ただ、絶対にそれだけはないだろうと、根拠なく思いこんでいただけだ。
ひりあちゃんが、西園寺さん。
どんな女の子がそこにいても、俺は好きでいられると思っていた。でも、実際に姿を見たあと感じたのは思っていた感覚とはまったく違った。
無理だろ。
今思えば俺はずっと、無意識に自分と近しい、もっと言えば自分より“下の存在”を期待して想像していたんだろう。自信がない、つまらない自分でも愛してくれる、人より少し劣った存在。だからこそ、自分を受け入れてくれる存在。自分に都合の良い偶像を、彼女に被せていた。
容姿はあまり可愛くなくて。人見知りで人と上手く話せなくて。だから友達がいない。
人より劣っているから、自分の人より劣った部分を受け入れてもらえるんじゃないかと、きっとそんな風に思っていた。
俺は呆然とそこに座り込み、いつの間にか陽が落ちて薄暗くなってもまだそこにいた。頭が働かない。
外でカラスが鳴く声がした。
俺は秋の空をくぐり抜けて飛ぶ一羽のカラスの姿をぼんやりと想像した。
*
頻繁にもらっていたメールの連絡は一切なくなった。もちろん、あの場所で会うこともない。
西園寺さんは、俺だとわかった途端冷たくなったし、俺は彼女だと知った途端普通に話せなくなった。
顔を合わせ、名前を知ると言うのはこういうことだ。
まったく知らない相手ならそのまま受け入れられるかもしれないけれど、知った人間だった場合、そこにふたりの人間が生まれる。
どんなに内面を好きで心を許して、そのまま変わらずにいられると思っていても、現実は名前と顔の実体あるほうを優先させて、そちらに意識を合わせてしまう。
意識だけの生き物は実体に殺されてしまう。
俺がひりあちゃんに会うことは二度とない。
ネクラも、ヒリアも、簡単に殺された。
他でもない本人たちによって。
西園寺さんは俺に腹を立てていた。
彼女はどんな人物を期待していたのだろうか。それは彼女にしかわからない。
けれど、俺じゃないことだけは確かだった。
俺はといえば、時間が経つほどに、妙に落ち着いていった。
ずっと頭の中で、静かに考えていた。
急に会えなくなったあの子のことを。
それから、西園寺さんのことを。
西園寺さんは、友達がいない。
彼女はひとりでもいつも堂々としていた。だから俺はひとりでいる西園寺さんを“友達がいない子”と見たことはなかった。
俺は、彼女がそれを気にしているだなんて思いもしなかった。
西園寺さんは、笑わない。
それは、笑う機会がなかっただけだ。
彼女は自分の笑い声につられて笑ってしまうくらい、それから校長が口元についた餡子を指摘しただけで笑ってしまうくらい、よく笑う子だ。
ボロボロのジャージを着て、歩く姿。
友達ができたとはしゃぐ声。
早乙女さんに呼ばれて出ていく彼女の姿。
頭の中に、ひりあちゃんの明るい笑い声が、通り過ぎるように思い出された。




