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29.訪問者◆ネクラ



 彼女が、できた。


 不思議だけど、できた。その彼女の顔と名前は知らない。でもネットで会って結婚する人だっているんだから、きっとおかしいことじゃない。


 俺の、このつまらない内面を好きといってくれる、カブトガニより希少な子が、存在していた。


 俺はとても浮かれていた。

 なんかちょっと格好良くなった気すらする。

 生きててよかった。



 日曜日。

 昼過ぎにバイトから帰ると西園寺さんが店で唐揚げ定食を食べていた。


「あれ……西園寺さん、なにしてんの」


 西園寺さんは口の中の唐揚げをむぐむぐして飲み込んでから恥ずかしそうに言う。


「ごめん。ジャージ返そうと思って……佐倉君が帰るまえにおいとましようと思ってたんだけど」


「いっぱい食べてねー。ゆりあちゃん、これも! あと、これも」


 なんとなく流れは把握した。ジャージ、あんなもの捨ててくれてよかったのに。いや、西園寺さんちのゴミ箱が汚れるかな。


「いただきます。あ、今日は代金払いますから」


「ダメダメ〜。ゆりあちゃんからお金なんてもらえないからね。ほら、春雨サラダも食べて」


 どことなく母と打ち解けている。そして相変わらず美味しそうにぱくぱく食べている。


 西園寺さんはご飯をお箸に適量乗せて、口に運ぶ。唐揚げをひとくちぶん歯で噛みちぎり、油のついた唇を小さく舐めた。お味噌汁をふうっと吹いてからお椀からそそ、っと飲んだ。満足気な吐息。漬物を小さくパリパリと食べる音。わずかに細まる目。頰がわずかに色づいて、夢中になっているのがわかる。


 なんとなく、食べ終わるまでずっと見てしまった。


「総士、送って行きなさい」


「はい。西園寺さん、送って行っていい?」


「え、悪いなあ…………ありがとう」


 この街はそこまで治安がよくない。激悪ではないけれど、少なくとも西園寺さんの住んでいる街に比べると、上品でない人間は多い。それに、彼女の場合は前例がある。


「駅までで大丈夫だからね」


 店を出ると小声で言われる。

 母親の手前断らなかっただけで、本当はちょっと迷惑だったのかもしれない。素直に頷いた。


「そういえば、好きな人には会えたの?」


「うん!」


 なんとなく、顔を見てそんな感じはしていた。とても嬉しそう。


「高校生なんだよね」


「うん……優しくてかっこよくて、背が高くて、運動神経あって、料理が上手くて……すっごく素敵な人」


 なんかすごそう。


 高校生っていっても、只者じゃないんだろうな。

 きっとものすごく気がきくイケメン。目が合うとみんな妊娠するレベルのイケメン。身長2メートル。金メダルを持ってる。トークショーが三十六時間ぶっ続けでできる話術を持ち、16カ国のさまざまな料理をプロ並みに作れて、メンサに入ってる。寒い雪の日にお地蔵さんに自分の傘をあげるくらい優しい。


「……なんかへんな想像してる?」


「え、してないと思うよ」


 そんなスケベな想像しているように見えたろうか。恥ずかしい。俺いま色ボケだからかな。


 怪訝な顔をして軽く睨んでくる西園寺さんは一般的に見たらものすごく可愛い顔をしていたけれど、俺の心は動かない。顔も見たことがないひりあちゃんのほうが、なぜだか数倍可愛く感じるからだ。

 べつに西園寺さんと比べる必要もないし、西園寺さんからしたら失礼だ。でも、西園寺さんを見て可愛いと思うことに妙な罪悪感があったのだ。


 ひりあちゃんはきっと、西園寺さんのように目立つ美形とかではないだろうけれど、よく笑う、ものすごく可愛い子だ。

 たぶんそこまで成績もよくなくて、人見知りで、友達がいない。俺のようなやつでも受け入れてくれて、俺のようなやつでも助けてあげられる。俺のことを好きになってくれた。


 俺の、彼女。


 この間から藁子ちゃんが何回もわいて、「キモキモ」言いながら俺の頭を勢いよくスパーンスパーンスパパパーンと叩いてくるけれど、それでもまったく正気に返れない。


 ただ、ときどき藁子ちゃんは小さな声で言う。


『いつ、名前を言うの?』


『顔は見せないの?』


 藁子ちゃんのその声はとても小さいもので、だから俺はそれを聞こえないふりをしていた。


 けれど、告白された日からずっとずっと、その小さな声は聞こえ続けている。




「佐倉くーん」


 西園寺さんと連れだって歩いていると、女の子の声がした。見ると中学二年の時のクラスメイトの女子がいた。


「わー、相変わらずだね! 高校でもモテるでしょ」


「いや……」


「やっぱり? 倍率すごいだろうね!」


 彼女は明るく笑って少し後ろにいる西園寺さんに気付いて、驚いた顔で凝視した。それから少し声をひそめる。


「彼女? すごいね……!」


「え?」


「すっっごい可愛くて、超お似合いだね!」


「ちがうんだけど……」


「佐倉君、やっぱりすごいなあ! 勉強もできて、運動もできて、背が高くて顔も良くて……彼女まですんごい美少女!」


 彼女はきゃーきゃーとはしゃいで、忙しくしゃべり、ふっと腕時計を見て慌てて去って行った。


 しばらく行くと今度は野太い男の声で「ソウ! ソウ!」と聞こえる。見ると数少ない悪友だった。彼とは小中と一緒で、俺の女性観なども知っている。仲はよかったが高校に入ってからはそんなに会ってなかった。なまじ近所だからいつでも会えると思うが故に機会を逸していた。


「ミノか。高校どうだよ」


「まあまあかな。おまえは? 彼女とか……できねえだろうな……」


 そこまで言って背後の西園寺さんに気付いて驚いた顔でガン見する。しばらく驚愕のままあんぐり開いた口が閉じなかった。それから叫び出す。


「えっ、えぇえぇええあええー! 嘘ぉ〜! ソウが……?」


「……まて、おまえ、なにか勘違いしただろ」


「やダァ〜! そんなぁ〜! 人間ってそんなに顔なのぉ〜?! イヤァあぁあァん!」


 ショックのあまりオネエになったミノが、そのままヨロヨロと去って行った。


「……佐倉君て、もしかして本性結構悪いやつなの?」


 一部始終を見ていた西園寺さんが、首をひねり、さほどの興味も無さそうにこぼした。


 四方八方に誤解され続ける人生。







 メールからきっかり五分後、教室を出る。

 つい急ぎ足になってしまう。


 第二図書室の扉をばたんと閉めるとすぐに声がする。


「ネクラ君!」


「うん」


「会いたかった! 好き!」


「う、うん……す…………」


「うん」


「す…………」


 しばらく待っているような沈黙があったけれど、やがて諦めた息の音が聞こえた。


「昨日はね、部屋の掃除をしたよ。すごかったから」


「ひりあちゃんの部屋、どんなの?」


「可愛い狸の置物があるよ」


「狸? ……しがらき焼の?」


 うちのお店の前にも小さいのあるけど。


「え、うん? なんか、まえ外で見て可愛かったから、小さいの買っちゃったの。でも、大きいのも欲しいと思って、掃除した!」


「そ、そうなんだ」


 ゴリラ、狸。毎度デザインがワイルド系だけど、動物好きなのかな。また新しい一面を知ってしまった。


「ネクラ君の部屋は? どんな感じ? 置物ある?」


「俺の部屋じゃなくて、玄関に、木彫りのクマがあるけど」


「くま?」


「お土産物とかでたまにある、魚咥えたやつ」


「あー、……それ見たことあるかも」


「友達の家で?」


「う、うん……まぁ」


 なぜかひりあちゃんが口籠る。クマはあまり好きじゃないのかもしれない。


「ネクラ君は好きな動物は?」


「パンダ」


「わー似合う! すっごく似合うね」


 ひりあちゃんはくすくす笑う。

 俺もつられて笑う。


 こんな他愛もない会話が楽しくて、幸せで、平和な日々。



 その関係があっけなく壊れるなんてことを、俺は想像もしていなかったし、頭の中一面に広がったお花畑が、突然焼畑にされるなんてこともやはり、予想していなかった。




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