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16.夏休みの不運◇ヒリア



 蝉が鳴いている。もう朝だ。


 夏休みの朝だった。


 夏休みといってもわたしは特にやることがない。ここのところは毎日、ビデオ・オン・デマンドサービスで日がな一日バカなコメディ映画を観てるばかりだった。


 その日は朝から本当に、何もかもが上手くいかなくて、最悪の連鎖をしていく日だった。

 まず、父が、仕事関係で家族皆で泊まりがけでパーティに行く、おまえも来いと言い出した。パーティなんて、行きたくない。どうせ牛丼のひとつもでないようなパーティだ。ウンザリする。


「行ってもすることないし! わたし抜きでもいいでしょ!」


 半ギレで友達と遊ぶ約束があると嘘をついて家を飛び出した。日帰りでも苦痛なのに泊まりとか、ゾッとする。


 お姉ちゃんのおさがりの、というかおそらく一度も着ていないうちにわたしのものになったワンピースを着て家を出て来た。わたしの服はみんなこんな感じのおさがりだ。お姉ちゃんよりはだいぶ背が低いので丈は少し長くなるが、おかしなことにウエストはぴったりという。


 どこで時間をつぶそうか考えて、前一度降りた駅を探索してひとりで遊ぶことにした。こういうのは、切り替えが大事。よーし、遊ぶぞ。


 駅について商店街を見回る。

 入道雲に青い空。わしゃわしゃ煩い蝉の声。

 痛いくらい眩しい夏休みの朝。


 通りの揚げ饅頭を買って食べて、用もなく雑貨屋にも入って、すごく楽しかった。前来たときは豆腐屋さんがリヤカーで売ってたけど、今日は見当たらなかった。まあいいか、納豆屋さんなら絶対買うけど。


 商店街を抜けてちょっと歩いたところで雨が降ってきた。豪雨だ。この辺から切り替えたはずのわたしの一日も雲行きがだいぶ怪しくなってきた。


 雨のことなんてぜんぜん考えてなかったので、傘の持ち合わせもなく、あっという間にびしょ濡れになった。


 うわ、服ちょっと透けてる。早くコンビニで傘買わなくちゃ。来た道と逆の方向にそれらしき看板を見つけて急ぎ足で行くとつぶれていた。


 なぜか探してるときだけ見つからないコンビニにやっと入ったときには雨は止んでいた。駅からだいぶ離れた場所でずぶ濡れのわたしだけが残った。


 帰るしかないかな。そう思って歩いていると、街灯から落ちた雨粒の塊がぼちゃりとおでこを直撃した。わたし、ほんと反射神経ない。


 前が見えなくて目をこすりながらヨロヨロ歩いていると、近くの建物の柵が壊れていて、そこに肩口をひっかけて、ビイィッと嫌な音と共に、ワンピースが少し破ける。


 信じられない。


 なんか、すごくついていない。せっかく出てきたのに。コントかよってぐらい、災いが連鎖してる。しかし、このときはまだ笑ってられた。


 脱力した笑顔が凍りついたのは、変なおじさんがわたしのあとをつけてるのに気付いたときだった。あの帽子の人、結構な距離を移動してるのに、ずっといるんだもん。たぶん、そう。これは笑えない。


 もしかしたら偶然かもしれないし、気持ち悪いからさっさと撒いちゃおう。そう思って早足になったら段差で足を捻って転んだ。ふくらはぎを地面で擦って、薄く血がにじむ。


 心臓がばくばくしていた。あ、これ、あとで腫れるやつかも。


 なんとか痛みもこらえてヨロヨロ移動する。そうすると、不審なおじさんが追いかけるように後からついてくる。本格的に気持ち悪い。


 早く諦めてほしい。駅に戻るまでにある細くて人通りの少ない道を考えるともっと早くに撒きたい。

 目に入った喫茶店に入るとおじさんは窓の外でじっとわたしを見ていたけれど、やがて、店内に入ってきて、空いている一番近い席に座った。


 どうしよう。これは、ぜったい危ないひとだ。


 家に電話しても、家族は遠くのパーティに行ってるので誰もいない。


 たぶんいくらでも方法はあったけれど、焦っているので、冷静に頭も動いていない感じがした。


 誰かに、頼りたい。でも、頼れる人がいない。そう思ったとき、わたしの頭にある人が浮かんだ。


 ネクラ君に、一度だけこの街の話をしたとき、彼が一瞬言いかけた言葉をわたしは覚えていた。


「そこ、俺の家」って言ってた。


 そもそも、彼がこの街に住んでるんだって思ったから、今日だってここに遊びに来たのだ。


 ネクラ君に会いたい。助けてほしい。

 何もしなくてもいいから、今一緒にいてくれるだけでいい。恐いし心細い。連絡したら、彼は来てくれるだろうか。そう思ってスマホを取り出す。


 顔も知らないのに、無理がある。

 今までの友情も無になる可能性もある。


 それでも、わたしにはネクラ君しか友達がいない。


 文面を作って送信ボタンに指をかけようとする。


 おじさんは相変わらずわたしをじっと見ていたけれど、ふいにスマホを構えた。写真を撮ってるのかも。そう思ったら鳥肌がぶわっとでた。嫌悪感で席を立って、急いで店を出た。


 なんでまたついてくるの。ほんとに気持ち悪い。


 頭に血が上って、急ぎ足でどこに向かうでもなくなんとか撒こうとしてめちゃくちゃに歩く。交番とかないかと探したけれど、焦っているので見つけられないばかりか、少しひと気の少ない道に出てしまった。


 背後の足音が急にペースアップした。


 振り向くとおじさんが急ぎ足で接近してくる。わたしも走りたかったけれど疲れ切っていて、捻った足が痛む。ヨロヨロとしか前進できなかった。


 このままだと追いつかれる。

 頭が真っ白になったとき、おじさんとわたしの間にリヤカーが勢いよく滑り込んできて、おじさんの腹と足にぶつかりおじさんは「げふ」と言って止まった。


 その後からほっかむりをした豆腐屋さんが来て、わたしと変質者の間に立ちふさがる。


「それ以上近寄るな。け、警察呼ぶぞ!」


 豆腐屋さんはそう言って威嚇するようにぱぷーとラッパを吹いた。


 変質者がじろっと豆腐屋さんを見た。

 豆腐屋さんがリヤカーに挿していたノボリを引っこ抜いて構えた。武器としてどうなのかはともかく、おじさんは舌打ちしてどこかへ行った。わたしと豆腐屋さんは変質者が見えなくなるまでじっと動かずに見ていた。


 風が吹いて、豆腐屋さんのノボリがハタハタ揺れた。


 その場に膝から崩れ落ちる。

 豆腐屋さんは「はあ」と息を吐いてノボリをもとに戻した。そしてわたしに声をかけてくる。


「西園寺さん、大丈夫?」


「え、」


 ほっかむりを外して見せたその人は佐倉君だった。


「あ、ありがとう……! ありがとう!」


「その……大丈夫? なんかされた?」


 佐倉君は、服も破れて、ふくらはぎから血を流しているわたしをいたましい目で見る。なにか、あったこと以上のものを想像されてるかも。


「あ、ずっと追いかけられてただけで、特に何かされたわけではない」


「よかった……」


「ご、ごめん。手をかしてもらえる?」


 腰が抜けて、立ち上がれなかった。手を伸ばすと、佐倉君が自分の手をエプロンでごしごし拭いてから、引き起こしてくれた。


 足がズキズキ痛む。


「佐倉君は……そんな格好でなにを?」


「バイト。警察行く?」


「……もう帰りたい……」


 できれば行ったほうがいいとは思ったけれど、あまりにクタクタで、今日これ以上拘束されたくなかった。結局被害もなかったので、どうにかできるとも思えない。


 ちらりと佐倉君を見る。


 大して仲良くない、どちらかというとやや険悪なクラスメイト。学年のアイドル。しかもバイト中。こんな人にこれ以上頼れるよしもない。変質者を追っ払ってもらえただけで御の字だ。


「それじゃあ、本当にありがとう」と言ってぺこりとお辞儀して、歩きだす。


 足、ズキズキ痛い。落ち着いたらどんどん痛くなってきた。少しよろける。


 しばらく行ったところで、ガラガラガラ、と背後から聞こえて、振り向くと佐倉君が追いかけてきてた。


「さ、西園寺さん、家の人呼ばないの? 呼びなよ。来るまで一緒に待ってるよ」


 黙って首を横に振った。なにかしゃべると泣きそうだったから。唇を噛む。ぺこぺことお辞儀して、また、駅の方に歩きだした。


「待ってよ。血がでてる。服も……なにがあったのかわかんないけど……さすがにほうっておけない」


「で、でも……」


 佐倉君が思い切ったように、わたしの手をつかんだ。そして、一瞬でぱっと離した。彼がわたしの目をまっすぐに見て言う。


「西園寺さん、俺のこと嫌いかもしれないけど、今だけ、助けさせてよ……」


「……っ」


 いろんな想いが胸に溢れて、それなのにまともな思考にはならなくて、ただ、涙だけがぽろぽろとでてきた。


 佐倉君が「こっち」と言って駅へ向かってリヤカーを引く。それでもわたしが動けずにいるとリヤカーを置いて戻ってきた。


「ごめん、触るよ」


 彼に手首を引かれて、ヨロヨロと歩きだす。


「足いたい……」


 思わず呻くと手を離される。それから彼はポケットからスマホを出してどこかにかけた。おつかれさまです、とかなんとか言ってるので、バイト先なのかもしれない。


 また、風が吹いて、わたしは途中からその声を拾うことなく呆然としていた。


 通話を切った佐倉君がまたわたしのほうを見る。


「さ、西園寺さん、すごく嫌だろうけど、おんぶしたほうが早い……」


「うぅ……重いし、湿ってるし、やだよね、ごめんね」


 鼻声で言って、おんぶの体勢に入った佐倉君に抱きつくようにして、おぶわれた。


「すぐだから。我慢して」


 そう言われて、五分も経たないうちに目的地についた。駅に行くのかと思いきや、少し手前で降ろされた。


 顔をあげると目の前には古いお店があった。

『食堂 さくら』と書いてある。


 佐倉君がガラガラと扉をあけて中に入ると明るい「いらっしゃいませ」の声に出迎えられた。


「あら総士。バイトはどうしたの?」


「母さん、俺店代わるから、この子風呂にいれてやってくれない? あと足怪我してる」


「あらあらあらあら、服も破れてて大変じゃない。総士、あなたまさか……」


「俺じゃない!! 事情は聞いてないけど、クラスメイトなんだよ!」


 佐倉君が言って、わたしは店から少し行ったところにあるらしい彼の家に、車で移動した。





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