13.【第二図書室】しりとり◆ネクラ
放課後、第二図書室の奥で足を伸ばして待っていると、パタパタと走る音が近付いてきて、勢いのいいバン、という音がした。
「走ってきたの?」
「う、うん。だって、早く行かないと帰っちゃうかもと思って……」
はぁ、はぁ、と走ったあとの吐息混じりの声で言われて頭がぼうっとする。吐息まで可愛いとか……いかん、あらぬほうに思考がいきそうだ。
「俺が呼んだのに帰ったりしないよ。ちゃんと待ってる」
俺は日が暮れても、夏休みが来ても、学校が廃校になっても、そのまま数千年の時間が経ち、人類が滅亡したとしても待っている。
「うん、でも、だって、早く……」
「落ち着いて、座って息を整えて」
西園寺さんになぜか嫌い宣言された時は少し落ち込んだけれど、しかたがない。俺はもともと女子に囲まれているほうがおかしい人間だし。
でも、誰に嫌われても、俺にはひりあちゃんがいる。だからそこまで落ち込まなかった。俺には理解者がいる。可愛くて最高に良い子。たとえ本棚の反対側にいるのが声の可愛い野生のカバやハシビロコウだったとしても俺は変わらず愛してしまうような気がする。
「マスト」
「えっと、トマト!」
「とうふ」
「うーん、ふんどし!」
ふわふわした思考の中会話をして、俺はひりあちゃんとしりとりをしていた。
「ひ、ひりあちゃん、ふんどしのこと知ってるの……」
「え、ネクラ君ふんどしと知り合いなの?」
「女の子は知らないと思って……」
「ネクラ君はブラジャーのこと知ってる?」
「なッ、ぶ……! 知り合いではないけど……一応名前だけ……なまえだけだよ!」
「知ってるじゃん……。ネクラ君、女の子というものに対してイメージが偏ってるよ。そんなに周りに女の子いないの?」
「クラスにはいるから、なんとなく話を聞いたりはしてるけど……誰もふんどしのことなんて言わないから……」
「そ、それはそうかも、ごめん」
「いや、でも俺が偏ってるのは確かだと思うよ」
「ほかにはあるの?」
「え、」
「女の子が、男とちがうと思ってること」
「え、そんなには。……ゲロ吐かないとかかな」
「いや吐くよ! なにさらっととんでもないこと言ってるの」
「え、吐くの?」
「吐かないわけないじゃん。気持ち悪くなったらドバドバ吐くよ! ……本気じゃないよね?」
「う、うん。よく考えたら同じヒト科のホモサピエンスなんだから、身体の構造として、吐くほうが自然かもしれない……」
本気かと言われると、本当にそう思っていたわけでもない。漠然と、想像できなかったというか。なにか別の種族の生き物と思っていたというか。むしろ、吐いてほしくない、とかそっちに近い感情かもしれない。幻想を抱いていた。女子に指摘されると恥ずかしさもひとしおだ。
「でも、わたしもむかし、男の人はパンツはいてないと思ってた」
「なんで?」
「ドラマとか映画で、立ったままチャック下ろしておしっこしてたから、なんとなく……」
ひりあちゃんがうふふと笑って言う。
可愛い。なにその可愛い勘違い。
ていうかひりあちゃんさっきからゲロとかブラジャーとかおしっことか、可愛い声でとんでもない単語たくさん言ってる。俺の周りの女子は一年以上周りで話していても一度も出てきたことのない単語ばかりだ。女子はそういうこと言わないと思っていた。
でも、ぜんぜんガッカリとかしないし、むしろ得した気持ちでいっぱいだ。
ひりあちゃんはたぶん、ゲロを吐いても可愛い。ゲロそのものも可愛い気がする。幻想が打ち砕かれることがないばかりか、あらぬほうに広がっていく。いや、俺は一応性癖はノーマル。性癖すらつまらない男。ただ、ひりあちゃんが可愛すぎるだけなんだ。
「そうだ! ネクラ君て……」
「え、」
「なんでもない」
「言ってみてよ」
「ううん……この質問はやめとく。その、わたし、もうちょっとネクラ君のこと、知りたいなって……思ったんだけど……困るよね……」
こ、困らないけど、困る。可愛すぎて、困る。頭がカーっとなって、呼吸もできずにいると、本棚の向こうから慌てた声がくる。
「ご、ごめん! 聞かない! 聞かないから……」
「え、」
「余計なこと聞かないから……これからも、こうやって友達として会ってくれる?」
思わず本棚とは反対の壁に頭を強く打ち付けた。なぜそんなことをしたのか、とにかく落ち着くにはそうするしかなかったのだ。ガツ、と鈍い音がした。
「ネクラ君? ネクラ君?」
本棚の向こうから立ち上がるような音と不安そうな声が聞こえる。慌てて口を開いた。
「あっ、ごめん! ちょっと気を失いかけてた。俺、ひりあちゃんと話してて楽しいから、これからも会いたいし、知りたいことあれば、なんでも答えるよ」
向こうの気配がまた動いた。また座り込んだ感じ。ほうっと息を吐く音もした。
なんでも答えると言ったけれど、結局とりたてて質問は来なかった。
代わりに聞こえてきたのは「もうすぐ夏休みだね」だった。
「あ、そうか……でもまだだいぶあるよ」
話題としてはだいぶ気が早い感じだけれど、なにかをごまかすためだったんだろうか。
「夏休みは嬉しいけど、ネクラ君に会えないのは寂しいな……」
「え゛ィッ?」
「だってわたし学校、ほとんどネクラ君に会いにきてるだけなところあるから!」
「えぇっ! 俺のこの性格知った上でそんなふうに言ってくれんの?」
「わたし、ネクラ君の性格大好きだよ」
「ゴっふォ!」
俺も。俺もすごい好き! 言えないけど!
顔が見えないこの状況での性格が好き。それはもう好きってことでいいかな? 駄目かな?! どう思う? 藁子ちゃん!
藁子ちゃんはあいからわずの平坦なイントネーションでカサカサ揺れながら『そーしくん、むちゃくちゃきもーい』と言ったので自分の中にいくばくかの落ち着きを取り戻した。
『向こうは、はっきり友達って言ってるじゃーん、そーしくんが異性ということを意識していないから、そういうことをバンバン言えるんだからねーわかる? わかったらしねー! キモいひとー!』
藁子ちゃんが俺を冷静にさせる。普段は『パフェたべるー』とかしか言わないくせに、俺の希望を打ち砕くときだけ、らしからぬ論説をつかい饒舌に攻め立ててくる。
冷静に。冷静に。俺のほうも友達としての好意を意識せずに伝えればいい。
「お、俺も……ひィ……」
ひりあちゃんの性格好き。ていうか声も好きだし、なんかもう存在そのものが大好きなんだけど、女子にそんなこと言ったことないものだから、結局途中で声がつかえて爺さんの悲鳴のようになった。しかし、充分内容は伝わったようだった。
本棚の向こう側で彼女が身じろぎするような衣擦れの音が聞こえる。
「わぁぁ……うれしい……」
かわいい……。
見えもしないのに、抱えた膝に顔を埋めて隠す。
そろそろ普通の友達になりたい気もする。
だけど、変に姿を隠してしまったせいで余計にそれをしづらくなってしまった。しかも俺、悪目立ちしてるし。せっかく仲良くしてくれてるのに、素性が知れたらひりあちゃんみたいな子は萎縮して同じように接してもらえなくなるかもしれない。
彼女はネクラではなく佐倉である俺のことを知っているのか。知っていたとして、悪い印象は無いか。そこもわからない。たくさん懸念はある。
そしてお互いの感想がどうであろうとも、関係は確実に変わる気がする。声だけの、どこか匿名性の高い状態の会話と、お互い姿を認識しての会話は、近いようでまったくちがう。
それにまず、俺だけじゃなく彼女の意思もある。
ごくりと唾液を嚥下して、口を開く。
「ひりあちゃんは、俺の名前とか、顔とか……知りたい?」
その質問には長い沈黙が返ってきた。
「……知りたいけど……わたしのほうが、イメージとちがって、ガッカリされちゃったりするの、恐いから……いい」
「そ、そんなこと……!」
「それに……」
「え、」
「なんだか、恥ずかしいから……まだ、いい」
ふしゅうっ、と息が漏れた。自分の顔が、耳まで熱い。なんだこれ。なんだ。




