第92話:鐘の音は、凶兆
バルコニーでの一幕の後、僕たちは、何事もなかったかのように、大広間の喧騒へと戻った。
陽菜は、友人たちに、ぷんすかと怒りながらも、その口元は、どこか緩んでいる。
クリスティーナは、そんな僕たちを、楽しそうな、それでいて少しだけ羨ましそうな目で見つめていた。
パーティーは、最高潮に達していた。
オーケストラが奏でる陽気な音楽。
シャンパンの泡が弾ける、軽やかな音。
有力者たちの、自信に満ちた笑い声。
きらびやかなドレスを纏った令嬢たちが、蝶のように、フロアを舞っている。
――チーン、コーン、カーン……。
ふと、広間の片隅にある、大きな古時計が、重々しく、時を告げる鐘を鳴らし始めた。
午後九時。
その、どこにでもあるはずの音が、なぜか、僕の耳には、不吉な凶兆のように、響いた。
その、最後の鐘の音が、鳴り終わった、まさにその瞬間。
――ぷつん。
世界から、音が消えた。
いや、違う。光が消えたのだ。
あれほどきらびやかだったシャンデリアの光が、何の予兆もなく、一斉に、沈黙した。
オーケストラの演奏も、ぴたり、と止まる。
数瞬遅れて、人々のざわめきが、波のように広がった。
「停電かしら?」
「非常用電源は、どうしたの!」
大広間は、完全な暗闇ではなかった。窓の外から差し込む、月明かりと、街の灯り。そして、いくつかのテーブルに置かれた、キャンドルの炎。
それらが、不安げな人々の顔を、ぼんやりと、不気味に照らし出している。
僕の隣で、陽菜が、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。
クリスティーナの顔から、いつもの余裕の笑みが、すっと消えている。
リリィが、僕の足元で、低く、唸り声を上げた。
ピコンッ。
僕の耳のイヤホンから、エレクトラの、これまでにないほど、切迫した声が響いた。
『――女神様! EMP攻撃です! 屋敷の、全ての電子機器が、一時的に沈黙させられました! 敵の、侵入が、始まります!』
その警告が、言い終わらないうちに。
――パリーンッ!!
ガッシャアアアアアアンッ!!!
大広間を囲む、巨大な窓ガラスが、外側から、一斉に、そして暴力的に、砕け散った。
夜風と共に、鋭いガラスの破片が、嵐のように、室内へと吹き荒れる。
令嬢たちの、甲高い悲鳴が、夜気を切り裂いた。
砕け散った窓枠の向こう。
月明かりを背にした、黒い人影が、いくつも、立っていた。
その手には、鈍い光を放つ、アサルトライフル。特殊部隊が使うような、黒いコンバットスーツに身を包み、その顔は、ガスマスクで覆われている。
彼らは、プロの傭兵だった。
その動きには、一切の無駄も、躊躇もない。
悲鳴を上げて逃げ惑う賓客たちには目もくれず、ただ、一直線に、僕たちのテーブルへと、その冷たい銃口を向けてきた。
「「「きゃあああああっ!!」」」
陽菜の友人たちが、悲鳴を上げて、テーブルの下に身を隠す。
「――陽菜!」
僕が叫ぶより早く、陽菜は、咄嗟に、小さな火球を両手に灯していた。それは、武器ではない。闇に包まれた大広間を照らし、敵の位置を暴き出すための、照明弾。
「クリスティーナ先輩!」
クリスティーナも、ドレスの裾から、護身用の細いレイピアを抜き放ち、友人たちの前に立ちはだかる。
だが、多勢に無勢。相手は、銃火器で武装したプロの部隊だ。
――ダダダダダッ!
数人の傭兵が、僕たちめがけて、威嚇射撃を開始した。
けたたましい銃声と、テーブルに着弾する銃弾の衝撃音。
(……まずい!)
このままでは、ジリ貧だ。
その、絶体絶命と思われた、刹那。
僕たちの前に、一人の男が、音もなく、立ちはだかっていた。
セバスチャンだった。
彼の両手には、いつの間にか、分厚い銀のトレイが、盾のように構えられている。
キン!カン!キン!
傭兵たちが放った銃弾が、その銀のトレイに弾かれ、甲高い音を立てていた。
「――皆様。パーティーは、お開きにございます」
セバスチャンの、静かな声が、響き渡った。
「お嬢様、アリア様、陽菜様。ここは、わたくしが」
彼が、一歩前に出ようとした、その時。
「待って、セバスチャン」
それを制したのは、僕だった。
僕は、陽菜とクリスティーナの間に立ち、抜き放ったミスリルナイフを構えた。
「あなたの仕事は、お嬢様と、賓客たちの安全確保が最優先のはずだ」
平穏な日常の終わりを告げる、鐘の音は、もう、誰の耳にも届いていなかった。




