第91話:月下のワルツ
エルロード邸の大広間は、シャンデリアのきらびやかな光と、人々の上品な笑い声で満ちていた。
僕は、陽菜とクリスティーナに両脇を固められ、学園やギルドの有力者たちに、次から次へと紹介されていた。
「こちらが、先日、グリフォンを単独で撃退されたという、噂の特待生アリア様です」
「おお、これはこれは……」
好奇と、畏敬と、そして少しの探るような視線が、僕に突き刺さる。僕は、ただ、愛想笑い(マスクの下で)を浮かべ、差し出されるグラスを受け取るだけで、精一杯だった。
やがて、オーケストラの生演奏が、優雅なワルツの調べを奏で始めた。ダンスタイムの始まりだ。
その、最初の曲。
「アリア様。一曲、お相手を願えませんこと?」
クリスティーナが、僕の前に立ち、まるで王子様のように、優雅に手を差し出してきた。
断れるはずもなく、僕は、その手を取るしかなかった。
クリスティーナのリードは、完璧だった。ダンス経験など皆無の僕を、彼女は、まるで羽のように軽やかに、ダンスフロアの中心へと導いていく。
くるり、とターンするたびに、僕のワンピースの裾と、銀髪が、ふわりと舞う。
周囲からは、「まあ、なんてお似合いの二人……」という、ため息混じりの声が聞こえてきた。
その光景を、フロアの隅で、陽菜が、じっと見つめていた。
その手には、ジュースの入ったグラスが、強く握りしめられている。唇を、きゅっと、噛み締めて。
クリスティーナとの、夢のような(僕にとっては悪夢のような)一曲が終わり、僕がようやく解放されると、その腕を、むんずと誰かに掴まれた。
「……蓮。ちょっと、来て」
陽菜だった。彼女は、不機嫌そうな顔で、僕を強引に引っ張り、喧騒から離れた、月明かりが差し込むバルコニーへと連れ出した。
ひんやりとした夜風が、火照った僕の頬に心地いい。
「……どうしたんだ、陽菜」
「……別に」
陽菜は、ぷいっとそっぽを向き、バルコニーの手すりに寄りかかった。
「……蓮ってば、クリスティーナ先輩の方が、いいんだ」
拗ねたような、小さな声。
その、あまりにも分かりやすい、やきもち。
僕は、思わず、笑ってしまった。
「――陽菜が、一番に決まってるだろ」
僕の、素直な言葉。
それを聞いた陽菜の肩が、びくっ、と跳ねた。
彼女が、ゆっくりと振り返る。その顔は、月明かりの下でも分かるほど、真っ赤に染まっていた。
――その、甘い光景を。
バルコニーへと続く、カーテンの影から、三人の少女たちが、固唾を飲んで見守っていた。
(いっちゃえーーーっ!)
ミカは、興奮のあまり、目の前のカーテンの裾を、ぎゅっと強く握りしめた。
アヤとユキは、無意識に、お互いの身体を、がしっ、と強く抱きしめ合い、その瞳は、僕たち二人に釘付けになっている。
「……ここで、踊るか?」
僕は、バルコニーに漏れ聞こえてくる、ワルツの調べに合わせるように、陽菜に手を差し出した。
「誰もいないし」
「……うん!」
陽菜は、はにかみながら、その手を取った。
だが、ダンス経験のない、僕たち二人。
ステップは、ぎこちなく、お互いの足を何度も踏みそうになる。
そして、僕がターンしようとした瞬間、ドレスの裾が足に絡まり、バランスを崩してしまった。
「わっ!?」
「危ない!」
倒れそうになる僕の身体を、陽菜が、咄嗟に支える。
気づけば、僕は、陽菜の腕の中に、すっぽりと抱き上げられるような形になっていた。
腕は、僕の腰に、しっかりと回されている。
僕たちの顔は、もう、触れ合うくらいに、近かった。
お互いの瞳から、目が、離せない。
そして、どちらからともなく、ゆっくりと、顔の距離が、近づいていき――。
「――そこで、何をしていらっしゃるのかしら?」
氷のように冷たい、しかし、どこか楽しげな声。
バルコニーの入り口には、腕を組んだクリスティーナが、立っていた。
そして、その視線は、僕たち二人ではなく、カーテンの影で奇行を演じている、友人たちに向けられていた。
「「「ひゃっ!?」」」
三人は、びくりと肩を震わせる。
ミカは、慌ててカーテンの皺を、シュシュッと直すふりをした。
アヤとユキは、抱き合ったまま、無理やり社交ダンスのようなポーズを取って、ごまかそうとしている。無理がありすぎる。
はっ!と我に返った僕と陽菜は、慌てて手を離した。
陽菜は、「むーっ!」と、真っ赤な顔で、友人たちをじろりと睨む。
友人たちは、「いや、あはははは!」と、乾いた笑いを浮かべるだけだ。
クリスティーナは、そんな友人たちに、にっこりと、完璧な笑みを向けた。
「皆さん。あとで、しっかり、教えてくださいましね? 一体、何があったのかを」
その瞳は、全く笑っていなかった。
嵐の前の、静かで、甘くて、そして少しだけ騒がしい、最後のワルツは、こうして、幕を閉じたのだった。




