第90話:鏡の前の、二人きり
パーティーの開始時刻が、刻一刻と近づいていた。
ゲスト用の広い部屋には、大きな姿見が置かれ、少女たちは最後の身だしなみチェックに余念がない。
僕は、陽菜が選んだ純白のワンピース姿で、所在なげにソファに座っていた。その隣では、タキシード風の首輪をつけたリリィが、退屈そうに尻尾を揺らしている。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
不意に、セバスチャンが部屋のドアをノックし、クリスティーナを呼び出した。
「どうしましたの、セバスチャン?」
「はい。警備システムの一部に、微弱なノイズが確認されまして。念のため、ご確認を」
「まあ、物騒ですこと。わかりましたわ、すぐに行きます」
クリスティーナは、僕たちに「少しだけ、席を外しますわね」と優雅に微笑むと、セバスチャンと共に部屋を出ていった。
その直後だった。
「あ、私、ちょっと飲み物取ってくるね!」
ミカが、にこりと笑って部屋を出ていく。
「わ、私も、お手洗い!」
アヤが、慌てたように後を追う。
「……ユキも、行くの?」
「う、うん! ちょっとだけ!」
ユキも、顔を赤らめながら、そそくさと部屋を出てしまった。
しーん……。
広い部屋に、僕と陽菜、そして猫一匹だけが、取り残された。
あまりにも、あからさまな友人たちの気遣い。
僕と陽菜は、顔を見合わせることもできず、気まずい沈黙が、気まずい空気となって、部屋を満たしていく。
沈黙を破ったのは、僕の方だった。
僕は、意を決して立ち上がると、姿見の前に立つ陽菜の、その後ろに立った。
鏡の中の僕たちは、まるで物語の王子様とお姫様のようで、なんだか、むず痒い。
「……陽菜」
僕が、か細い声で名前を呼ぶ。
「……なに?」
陽菜も、鏡越しに僕を見つめ、小さな声で答えた。
「……そのドレス、すごく、綺麗だ」
僕の、精一杯の言葉。
それを聞いた瞬間、陽菜の肩が、びくっ、と小さく跳ねた。鏡に映る彼女の顔が、みるみるうちに、真っ赤に染まっていく。
「……れ、蓮こそ……。すごく、綺麗……だよ」
しどろもどろに、そう言ってくれる。
僕たちは、鏡の中の互いを見つめ合ったまま、動けなくなってしまった。
僕は、気づけば、陽菜の、震える小さな手を、そっと握りしめていた。
陽菜も、その手を、ぎゅっと、握り返してくる。
二人の間に、言葉は、もう必要なかった。
――その、甘い光景を。
部屋のドアの、ほんのわずかな隙間から、三つの瞳が、ギラギラと輝きながら覗き込んでいた。
ミカと、アヤと、ユキだった。
「「「…………っ!!」」」
三人は、声にならない叫びを上げ、興奮のあまり、お互いの身体をぎゅーっと、力いっぱい抱きしめ合った。
(きゃーーーっ! 手、握った!)(ミカ)
(もう、いっちゃえ! いっちゃえよー!)(アヤ)
(尊い……尊すぎます……!)(ユキ)
興奮のあまり、お互いを強く抱きしめていた三人は、不意に、抱き合っている相手が誰なのかに気づき、ハッとした。
ミカとアヤ、アヤとユキの目が、至近距離で合う。
「「「……あ、いや……」」」
なぜか、三人とも、顔を真っ赤にして、慌てて身体を離した。
「……そ、そう!陽菜たち、どうなった!?」
ミカが、ごまかすように、再びドアの隙間から部屋を覗き込むと――。
目の前に、陽菜の、真っ赤な顔があった。
「――なーに、見てるんですかっ!」
「「「ひゃーーーっ!?」」」
三人は、小さな悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように、廊下の向こうへと逃げていった。
陽菜は、ドアの前で、ぷんすかと頬を膨らませている。その顔は、怒っているというよりは、羞恥心でいっぱい、といった感じだった。
ちょうどその時、クリスティーナが、廊下の向こうから戻ってきた。
「あら? 皆さん、何を騒いでいらっしゃるのかしら?」
彼女は、真っ赤な顔の陽菜と、空っぽになった部屋を交互に見比べ、不思議そうに首を傾げた。
「さ、さあ! パーティー、行きましょう、先輩!」
陽菜は、僕の手を強引に引くと、そそくさと部屋を後にしてしまう。
僕たちの、少しだけ進んだ(かもしれない)関係は、友人たちの、熱すぎる視線によって、一旦、保留となった。
華やかなパーティー会場の喧騒の中、リリィだけが、これから起こるであろう本当の脅威を、ただ一人、静かに警戒し続けていた。




