第89話:電子の蜘蛛と、影の猫
パーティー当日の夕刻。
エルロード邸の、ゲスト用に用意された豪奢な一室は、甘い香水の匂いと、少女たちの弾むような声で満ちていた。
鏡の前では、陽菜とクリスティーナが、僕の髪に、楽しそうに小さな花の髪飾りをつけている。
僕は、陽菜が選んだ純白のワンピースに身を包み、されるがままになっていた。もう、諦めの境地だ。
「まあ、アリア様! 本当に、天使のようですわ!」
「うん! 世界一、可愛いよ、蓮!」
少女たちの、手放しの賞賛。
僕は、ただ、サングラスの下で、顔を真っ赤にするしかできなかった。
部屋の隅の、ビロードのクッションの上。
タキシード風の首輪をつけさせられたリリィは、そんな僕たちの様子を、やれやれといった顔で眺めていた。
(……まあ……悪くない光景だにゃ)
彼女は、小さくあくびを一つすると、少しだけ微睡み始めた。
今日は、この屋敷に来てから、ずっと感じていた不穏な気配も、今のところはない。厳重な警備が、害虫の侵入を防いでいるのだろう。
つかの間の、平和な時間。
――その時だった。
『――……にゃーん』
リリィの頭の中にだけ、直接、ノイズ混じりの、妙に間の抜けた猫の鳴き声が響き渡った。
(なっ!?)
リリィは、びくっ!と全身の毛を逆立て、その場で飛び起きた。
(……この声は……まさか、魔女か!?)
『――ふふ。猫さん、こんばんは』
今度は、合成音声のような、しかしどこか楽しげな少女の声が、直接、脳内に響いてくる。
リリィの首輪に仕掛けられたマーカー。それは、ただの発信機ではなかった。超小型の、指向性思考伝達デバイスでもあったのだ。
エレクトラは、この日のために、リリィとの、秘密のホットラインを開通させていた。
『緊急連絡よ。今、第七区画の外れにある、閉鎖された港湾倉庫に、国籍不明の傭兵チームが集結しているのを確認したわ』
リリィの脳内に、衛星から撮影された、鮮明な画像が送りつけられてくる。重武装した男たちが、輸送車両に乗り込んでいく、緊迫した光景。
『彼らの装備、ルート予測……全てのデータから弾き出した結論は、一つ』
エレクトラの声が、すっと、温度を失った。
『――おそらく、今夜、このパーティー会場が、襲撃されるわ』
(……なんだと!?)
リリィの金色の瞳が、大きく見開かれる。
(馬鹿な! この屋敷の警備は、軍の基地並みのはずだにゃ! 正面からの攻撃など、自殺行為……!)
『そして、恐らくは警備の固い正面から、彼らは来ないでしょう。……裏から、よ』
脳内に、エルロード邸の、詳細な設計図が展開される。そして、その一角、警備が手薄になっている、古い地下水路が、赤くマーキングされた。
『おそらく、EMP兵器で一時的にセキュリティを無力化し、そこから侵入するつもりね。陳腐だけど、確実な手だわ』
全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。
(……まずいにゃ。陽菜も、アリアも、何も知らずに……!)
『――だから、お願いね。猫さん』
エレクトラの声には、どこか、芝居がかった響きがあった。
『このパーティーの、楽しい雰囲気を、壊したくないから。……だから、あなたと私で、害虫駆除を始めます。返事は?』
それは、共闘の誘いだった。
電子の海から全てを見通す、蜘蛛。
そして、物理的な影を渡る、猫。
二つの「裏」の力が、今、初めて、同じ目的のために、手を組む。
リリィは、ビロードのクッションの上で、ふぅ、と小さく息を吐いた。
(……ふん。指図されるのは、瘪だにゃ。だが、仕方ない)
彼女の金色の瞳に、決意の光が宿る。
(アリアたちを守る。目的は、同じだにゃ)
「にゃっ!」
その返答を聞き、、エレクトラの声が再び響いた。
『話が早くて、助かるわ。じゃあ、よろしくねリリィ♪』
通信が、一方的に切れる。
「リリィ? どうしたの、急に怖い顔して」
陽菜が、心配そうにリリィの顔を覗き込む。
リリィは、何でもない、というように「にゃん」と一つ鳴くと、陽菜の足元にすり寄った。
だが、その金色の瞳の奥では、すでに、静かな戦闘態勢へと移行していた。
華やかなパーティーの、きらびやかな光。
その下に広がる、深い影の中。
誰にも知られることなく、二人の守護者の、静かな戦いが、始まろうとしていた。
運命の、鐘が鳴るまで、あと、わずか。




