第88話:姫君たちのワードローブ
クリスティーナ邸でのパーティー前日。
僕たちの小さなアパートは、まるでファッションショーのバックステージのような、甘い香りと熱気に包まれていた。
リビングの中央には、どこから運び込まれたのか、豪華な衣装ラックがずらりと並び、色とりどりのドレスが、宝石のようにきらめいている。
「さあ、アリア様! まずはこちらの、深紅のドレスからお試しになって!」
「待って、クリスティーナ先輩! 蓮には、こっちの純白のワンピースの方が、絶対に似合うって!」
クリスティーナと陽菜が、僕の両腕を掴み、それぞれが選んだドレスを、僕の身体に当てがいながら、火花を散らしている。
「い、いや、俺は別に、いつものパーカーで……。髪の色も、目立つし」
僕は、最後の抵抗として、まだ隠しているつもりの、最大の秘密をほのめかした。パーティーのような人目につく場所で、この銀髪を晒すわけにはいかない。
だが、その僕の言葉を聞いた瞬間、陽菜とクリスティーナ、そして友人たちの動きが、ぴたり、と止まった。
そして、彼女たちは、顔を見合わせると、どこか、とても、慈愛に満ちた、優しい目で、僕を見つめてきた。
「……蓮」
陽菜が、僕の手を、そっと握りしめた。
「もう、いいんだよ。隠さなくても」
「え?」
「そうですわ、アリア様」
クリスティーナも、反対の手を、優しく握ってくる。
「あなたの、その月光のようなお髪は、わたくしたちが知る、どんな宝石よりも美しい。それを、隠す必要など、どこにもありませんのよ」
「そ、そうだよ、アリアさん!」
「ずっと、大変だったんだよね……!」
ミカたちも、瞳を潤ませながら、うんうんと頷いている。
(……え? なんで、知ってるんだ!?)
僕の頭は、完全にパニックに陥った。
(ああ、蓮くん……こんな秘密も、ずっと一人で隠してきていたんだね。今まで、染めるのも大変だっただろうに……)
(なんて健気なのかしら、アリア様……!)
そんな、少女たちの、あまりにも見当違いな心の声が聞こえてきそうなほど、その場の空気は、感動と優しさで満ち満ちていた。
「さあ、アて様! フードは、もう必要ありませんわ!」
「絶対に、隠させないんだから!」
「「「うん!!」」」
少女たちの、固い団結の声。
僕の、最後の砦だったはずの「秘密」は、彼女たちの、あまりにも温かい(そして、少しだけズレた)思いやりの前に、あっさりと崩れ去った。
ソファの隅では、リリィが、陽菜に着せられた、小さなタキシード風の蝶ネクタイ付き首輪を、心底不満そうな顔で、前足でカリカリと引っ掻いていた。
(……こいつら、何もわかってないにゃ)
その隣では、ちびケイちゃんのホログラムが、感動的なBGMを、どこからともなく流し始めている。
「さあ、アリア様! まずは、陽菜さんの選んだ、白のワンピースからお試しになって!」
クリスティーナが、有無を言わさぬ口調で宣言する。
僕は、慌てて後ずさった。
「い、いや、着替えくらい、一人で……!」
「だめですわ!」
クリスティーナは、ぱん、と優雅に手を叩いた。
すると、どこに控えていたのか、アパートの玄関が静かに開き、黒いメイド服に身を包んだ、プロフェッショナルな雰囲気の女性が二人、音もなく入室し、僕の前に深々と一礼した。
一人は、ベテランらしい落ち着きのある女性、もう一人は、少しだけ年若い、ポニーテールの快活そうな女性だ。
「アリア様のお着替えは、わたくしの屋敷のトップメイドである、この者たちがお手伝いいたします。さあ、アリア様、観念なさいな」
「えっ、ちょっ、まっ……!」
僕の悲痛な叫びも虚しく、二人のメイドは、僕の両腕を、しかし決して乱暴ではない、流れるような動きで掴んだ。
そして、僕は、カーテンで仕切られた即席の試着室へと、文字通り、連行されていった。
「「「…………」」」
カーテンの外では、陽菜も、クリスティーナも、そして友人たちも、ごくり、と喉を鳴らし、固唾を飲んでその様子を見守っている。
「ひゃっ!?」
カーテンの向こうから、僕の、情けない悲鳴が聞こえた。
すぽんっ、するり、しゃらら……。
中で何が行われているのか、布が擦れる、あまりにも手際の良い音だけが、外に漏れ聞こえてくる。
(うわあああああ! 何だこの人たちは!? 早い! 動きに一切の無駄がない! あっ、こら、どこを触って……ひゃん!?)
僕の、男としての心は、プロの技術の前に、なすすべもなく蹂躙されていった。
一方、カーテンの内側のプロフェッショナルたちは、完璧な無表情の下で、全く別のことを考えていた。
(……これが、お嬢様がご執心のアリア様……。素晴らしい素材ですわ。この肌の白さ、筋肉の付き方……どんな衣装も着こなす、まさに至高の『お人形』……! 腕が鳴りますわね……!)(ベテランメイド)
(きゃー! アリア様、可愛いー! 華奢なのに、ちゃんと鍛えられてる! うう、お嬢様のお気に入りじゃなかったら、私が個人的にお世話したい……! いけない、仕事仕事!)(ポニーテールメイド)
彼女たちの内心の興奮をよそに、仕事は完璧に遂行される。
やがて、全ての音が止み、ベテランメイドが、すっ、とカーテンを開けた。
そこにいたのは、頬を真っ赤に染め、瞳をうるませ、放心状態で立ち尽くす、僕の姿だった。
フードから解き放たれた僕の銀髪と白い肌を、純白のワンピースが、驚くほど引き立てている。
「……か、可愛い……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「蓮……すごく、綺麗だよ……」
陽菜が、うっとりとした表情で、僕に駆け寄ってくる。
「ま、待ちなさいな!」
その甘い空気を切り裂いたのは、クリスティーナだった。
「清楚なのもよろしいけれど、アリア様の魅力は、それだけではありませんわ! さあ、次はこちらを!」
彼女が合図すると、メイドたちが再び僕を捕獲し、試着室へと引きずり込んでいく。
そこからは、もう、めちゃくちゃだった。
試着のたびに、僕はプロのメイドたちによって、あっという間に「処理」され、そのたびに、カーテンの外の少女たちの、悶絶に近い歓声が、部屋に響き渡る。
僕の、男としての尊厳は、すでに限界を超えて、宇宙の彼方へと消え去っていた。
ひとしきり騒いだ後、疲れ果てた僕たちは、床に座り込み、ミカが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。
結局、僕が着ていくドレスは、「どっちも捨てがたい!」という鶴の一声で、パーティーの途中で「お色直し」をすることに決まった。
「楽しみだね、明日のパーティー!」
「うん!」
少女たちの、弾けるような笑顔。
その、あまりにも平和で、きらきらとした光景を、僕は、サングラスの下で、ただ黙って見つめていた。
この、何気ない、温かい時間。
これを守るためなら、ドレスの一着や二着、着てやろうじゃないか。
僕は、心の中で、小さく、そう呟いた。
その時、僕の足元で、リリィが、僕のズボンの裾を、前足でちょいちょい、と引っ掻いた。
見ると、その金色の瞳が、何かを訴えかけるように、真剣な光を宿して、窓の外を、じっと見つめていた。
だが、その小さな警告に、華やかなお茶会の熱気に浮かれた僕たちが、気づくことはなかった。
運命の、パーティーの幕が開くまで、あと、24時間を切っていた。




